生ける伝説イチロー。
数々の偉業を成し遂げてきたイチロー選手はまさに記録にも記憶にも残る不世出のスーパースター。
イチロー選手の数々のスーパープレーとその影にある並々ならぬ努力。
使ってはいけないとわかっていても使いたくなる形容詞「天才」。
日本野球史上最高のプレイヤーと言っては過言ではない存在。
今日はそのイチロー選手の奇跡の軌跡を代名詞の背番号51に合わせて51個に分けて振り返っていきます。
無名の2軍時代から記憶に新しいメジャーでの偉業まで。
順位などつけられない全てがトップクラスの珠玉のイチロー伝説ベスト51です。
- 1 プロ一年目の「鈴木一郎」時代に二軍で首位打者
- 2 プロ初本塁打は野茂英雄投手から
- 3 イチロー誕生 日本プロ野球初のシーズン200本安打
- 4 史上最年少MVP
- 5 「がんばろう KOBE」 史上初の打撃5冠王
- 6 オールスターでピッチャーイチロー
- 7 被災地神戸で劇的サヨナラ優勝決定タイムリー
- 8 史上初の3年連続MVP
- 9 216打席連続無三振
- 10 意外な珍記録 4試合連続併殺打
- 11 史上初の5年連続首位打者獲得
- 12 スランプ脱出 きっかけは平凡なセカンドゴロ
- 13 平成の名勝負 松坂大輔VSイチロー
- 14 イチローのリベンジ 通算100号本塁打は松坂大輔投手から
- 15 もうひとりゴールデンルーキー上原投手からオールスターで本塁打
- 16 幻の4割 さようならイチロー
- 17 日本人初のメジャーリーガー野手誕生
- 18 伝説の始まりはセンター前
- 19 レーザービーム初披露 "the Throw"
- 20 オールスターで新旧51番対決
- 21 歴史的な強さでリーグ優勝
- 22 メジャー新人最多安打
- 23 新人王とMVP タイトル総ナメのデビューイヤー
- 24 メジャーでも不動のスーパースターへ
- 25 日米通算2,000安打達成
- 26 驚異の固め打ち
- 27 シーズン最多安打記録更新
- 28 スパイダーマン、シアトルに現る
- 29 メジャー通算1,000本安打
- 30 WBCで見せた闘志剥き出しのチームリーダーイチロー
- 31 アメリカンリーグ連続盗塁成功記録樹立
- 32 オールスター史上初のランニング本塁打
- 33 7年連続200安打をロジャー・クレメンスからの本塁打で飾る
- 34 中堅手としてゴールドグラブ賞を受賞
- 35 古畑任三郎に犯人役で出演
- 36 史上初の3年連続両リーグ最多安打を記録
- 37 WBC連覇達成 伝説の決勝タイムリー
- 38 キャリア初の故障者リスト入り
- 39 日本最多安打記録をど派手な満塁本塁打で更新
- 40 メジャー通算2000安打を達成
- 41 連夜のサヨナラ打
- 42 キャリア初にして唯一の退場処分
- 43 10年連続200本安打
- 44 キャリア初の大不振
- 45 ヤンキースへの電撃移籍
- 46 マリナーズ凱旋試合
- 47 ポストシーズンで見せた伝説のスライディング
- 48 シアトルマリナーズの伝説の4人に選出
- 49 日米通算4257安打で世界記録達成
- 50 メジャー史上30人目の3,000本安打
- 51 シアトル凱旋試合で放った劇的なアーチ
- 2017年に達成された記録一覧
- 2018年の去就 日本復帰の可能性は?
- 2018年は球団特別アドバイザーに就任し、シーズン途中から試合出場なし
- まとめ
- 関連記事
- youtubeチャンネルのご紹介とお願い
1 プロ一年目の「鈴木一郎」時代に二軍で首位打者
プロ1年目の1992年、当時オリックス・ブルーウェーブに所属していたイチロー選手はこの時まだ本名の「鈴木一郎」で登録されていました。
一年目からその才能を遺憾無く発揮し、打率.366でウエスタン・リーグの首位打者を獲得。
通常高卒1年目の選手が打率2割を越えれば上出来。
極稀に3割を超えた選手のほとんどは後にプロで成功を収めています。
【主な高卒1年目の2軍で3割越え選手】
- 城島健司 .304(207-*63) OPS .771
- 岩村明憲 .316(256-*81) OPS .978
- 田中賢介 .313(313-*98) OPS .805
- 川崎宗則 .300(223-*67) OPS .757
- 坂口智隆 .302(252-*76) OPS .760
しかし、イチロー選手の場合はそれらをはるかに上回る打率.366。
一年目から並外れた選手ではなかったことを証明しています。
同年のジュニアオールスターで代打決勝本塁打を放ちMVPと賞金100万円を獲得。
なんとその賞金全額を神戸市の養護施設に寄付。
19歳の時点でプレーも意識も常人とは違ったことが伺えます。
後年巨額の契約を勝ち取っても寄付を続けたイチロー選手。
その原点は10代の頃からあったものだったのです。
イチローは、同地にある二グロリーグ博物館に何度となく足を運び、野球界における有色人種のパイオニアたちの足跡をたどったそうだ。博物館の館長を務めるボブ・ケンドリックス氏は、イチローがそれまでで最も高額の寄付を贈った
引用:「先駆者」の功績に高額寄付 米メディアが伝えたイチローの知られざる素顔 | Full-count | フルカウント ―野球・MLBの総合コラムサイト―
2 プロ初本塁打は野茂英雄投手から
1993年は開幕1軍スタメン。
6月12日の対近鉄バファローズ戦で野茂英雄投手からプロ初本塁打。
日米通算201勝を超える元祖トルネード投法の野茂投手。
この翌年を最後に日本を離れることになる大投手からプロ1号を放つあたりにイチロー選手のスター性が垣間見られます。
後に海を越えて、メジャーリーグでも好勝負を演じた二人。
投のメジャーパイオニアが野茂投手であるならば、打のメジャーパイオニアはイチロー選手。
両選手の運命が交差し合う歴史的な瞬間です。
※関連記事→奪三振率も野茂以上!! 楽天・則本日本新記録の7試合連続二桁奪三振記録達成!
3 イチロー誕生 日本プロ野球初のシーズン200本安打
プロ三年目の1995年、登録名を本名「鈴木一朗」から「イチロー」に変更。
この年から監督に就任した仰木彬氏の発案で、日本人選手としては初めて、名字を除いた名前での選手名登録となった。
5月から8月にかけて日本プロ野球新記録となる69試合連続出塁を記録した。
1950年に藤村富美男が作ったシーズン最多安打記録191本44年ぶりに更新。
その後日本プロ野球史上初となるシーズン200本安打を達成。
最終的に安打数も210本(当時の日本プロ野球記録)まで伸ばした。
イチロー選手の活躍で安打数が話題となったため、連盟によって同年から「最多安打」がタイトルとして設立された。
最終的に打率.385で自身初となる首位打者を獲得。
全試合フル出場での首位打者は王貞治(1969年)に次ぐ史上2人目の快挙。
ちなみに三人目は松井秀喜氏。
4 史上最年少MVP
1994年は前述した首位打者のタイトルだけでなく、最高出塁率・ベストナイン・ゴールデングラブ賞を獲得。
打者としては日本プロ野球史上最年少でシーズンMVPを獲得。
この1994年の活躍によってイチローは文字通りイチローとなったのです。
またイチロー選手はこの年以降「イチロー」としての期待に応え続ける葛藤を抱くようになったと語っています。
常人には計り知れないプレッシャーが当時21歳の青年イチローにかかっていたのです。
5 「がんばろう KOBE」 史上初の打撃5冠王
1995年の1月17日に発生した阪神淡路大震災においてオリックスの本拠地神戸市が壊滅的な害を被った。
イチロー選手自身も神戸市内にあるオリックスの寮で被災を経験。
「がんばろう KOBE」を合言葉にシーズンは開幕。
イチロー選手は震災からの復興を目指す「神戸のシンボル」としての活躍を期待される。
その期待以上の活躍を見せ、首位打者・打点王・盗塁王・最多安打・最高出塁率を獲得。
史上初の「打者五冠王」に輝いた。
また、打点王と盗塁王の同時獲得は日本プロ野球史上初(現在も唯一)。
そのイチロー選手に引っ張られる形でオリックスはリーグ優勝。
22歳の時に「2年目のジンクス、厳しいマーク、復興のシンボルとしてのプレッシャー」など数え切れない重圧をはねのけたイチロー選手。
震災の影響で十分に調整出来なかったであろうことを考えると、1995年にイチロー選手が残した成績の凄さがわかります。
6 オールスターでピッチャーイチロー
1996年はシーズン以外の試合でも活躍。
オールスターゲーム第1戦で初回先頭打者初球本塁打を放った。
これはオールスター史上3人目、パ・リーグ選手では史上初の快挙。
また第2戦では投手として登板。
松井VSイチローの対決に注目が集まったが、セ・リーグの野村克也総監督が松井に変えて投手の高津臣吾を送ったため二人の直接対決は実現しなかった。
対戦した高津投手は投手としてのイチローに感心したそうです。
ヤクルトの高津投手コーチは「できれば投げないでほしかったね」と笑った。
96年のオールスターを回想し「めっちゃ、速かったよ。外角にずっと投げ続けて、全部その辺りに来るんだから、野手ではあり得ないよね」と感心。
高校時代に交通事故がなければ投手として上を目指したかったと語るイチロー選手。
その素質の片鱗が見られた瞬間です。
7 被災地神戸で劇的サヨナラ優勝決定タイムリー
9月23日の対日本ハムファイターズ戦(グリーンスタジアム神戸)で、延長10回裏にオリックスのリーグ連覇を決めるサヨナラ二塁打を放ち、前年のリーグ優勝時に果たせなかった「神戸での胴上げ」を実現。
イチローの名場面集の中に必ずと言っていいほど含まれる名シーン。
イチロー選手は神戸を第二のふるさとと語っています。
今でもシーズンオフは神戸に滞在し、自主トレも古巣のほっともっとフィールド神戸を使用するほど。
日本シリーズでは、第1戦の延長10回に決勝本塁打を放つ活躍を見せ、チームを1977年以来19年ぶりの日本一に輝いた。
イチロー選手も優秀選手賞を受賞。
8 史上初の3年連続MVP
1996年はチームを日本一に導く貢献を見せた。
デビューから3年連続となる首位打者を獲得し、また193安打で3年連続となる最多安打・最高出塁率を記録。
3年連続となるシーズンMVPを手にした。
3年連続シーズンMVPは日本プロ野球タイ記録で、山田久志氏に次いで史上2人目。
プロ野球の記録に残る結果とは対照的にイチロー選手は1995、96年はスランプに陥っていたと語っています。
しかし、調子が悪い中で結果を残せたことが、「好調とは何か」を知るきっかけになったそうです。
常人には到底理解出来ない感覚です。
9 216打席連続無三振
1997年は日本ハム戦で下柳剛から三振するまで、「216打席連続無三振」の日本プロ野球記録を樹立。
イチロー選手の類まれなるバットコントロールがあったからこそ生まれた記録です。
ちなみにですが、イチロー選手は高校時代の3年間の公式戦と練習試合613打席で20個しか三振していないそうです。
3年間613打席で三振は20個しか喫していない。
引用:雰囲気にのまれた甲子園/イチローと高校野球 後編 - 「未来へ」高校野球を愛する君に送る - 野球コラム : 日刊スポーツ
10 意外な珍記録 4試合連続併殺打
1998年のイチロー選手は珍しいことにシーズン21併殺打を記録。
5月には当時のパ・リーグワーストタイ記録の4試合連続併殺打を記録。
左打者、俊足という武器を活かして併殺が少ないことで知られるイチロー選手。
2002年以降の併殺打回避による貢献のランキングを見れば、もっともな名前を見つけることができる。
トップはイチローで、ほとんど併殺打を打たないことによってリーグの平均と比べ23得点を増加させた。
引用:イチローの隠れた武器 メジャートップ、併殺打回避による得点貢献度 | ベースボールチャンネル(BaseBall Channel)
若い頃のイチロー選手が併殺で記録に残っているのは意外な結果です。
11 史上初の5年連続首位打者獲得
前述した併殺打記録を作った一方で、打撃は相変わらず高いレベルを維持していた1998年。
打率.358を残し、張本勲の4年連続を抜いて日本プロ野球史上初となる5年連続首位打者獲得を達成。
後にこの記録はメジャー移籍する最終シーズンまで続き、7年連続首位打者獲得にまで伸びた。
12 スランプ脱出 きっかけは平凡なセカンドゴロ
次々と打ち立てられる偉大な記録とは対照的にスランプ陥っていたイチロー選手。
しかし、1999年西武戦で西崎幸広投手からセカンドゴロを放ち、スランプを克服。
「ああ、これなんだと思ってしまいました。これまで捜し求めていたタイミングと身体の動きを一瞬で見つけることができた。あやふやなイメージではなく、頭と体で完全に理解することが出来たのです」
引用:イチロー・インタビュー―Attack the Pinnacle!
その言葉通り調子を加速させたイチロー選手は金村暁投手から本塁打を放ち、日本プロ野球史上最速となる757試合目で通算1000本安打を達成。
13 平成の名勝負 松坂大輔VSイチロー
前年の甲子園を沸かせたスーパールーキー松坂大輔投手とイチロー選手の初対決。
当時は今ほどパ・リーグが人気がなかったのですが、この二人の初対決とあって西武戦が珍しく地上波で放送されたほど注目を集めた対決でした。
結果はイチロー選手がまさかの三打席連続三振。
滅多に三振しないイチロー選手が1人の投手に3打席連続三振を喫したのは、1994年の近鉄高村祐に封じられて以来、2度目。
野茂、伊良部といった名投手たちがメジャーリーグに移籍して以降、ライバル不在となっていたイチロー選手。
既に孤高の存在となっていたイチロー選手にとって久々に登場したライバルの存在は屈辱感よりもワクワク感を与えるものだったようです。
18歳にキリキリ舞いさせられたイチローは「久しぶりに勝負以外でも楽しむことができた」と悔しさよりも新たなライバル登場をどことなく楽しんでいる様子だった。
引用:【スポーツ記念日】怪物vs天才 「松坂」「イチロー」初対決(1999年5月16日)(2/2ページ) - 産経ニュース
14 イチローのリベンジ 通算100号本塁打は松坂大輔投手から
三打席連続三振を喫して黙っているわけにはいかないイチロー選手。
松坂大輔選手が口にして流行語にもなったリベンジを、イチロー選手がして見せます。
7月6日の対西武ライオンズ戦で松坂大輔投手から通算100号本塁打を放ちます。
実は対戦前から100号本塁打は松坂投手から打つと語っていたイチロー選手。
公言通りの結果を見せています。
日本での二人の対戦は1999年と2000年の二年間のみ。
通算対戦成績は、34打数8安打の打率.235、本塁打1本、4打点。
後に行われるWBCでは投打の柱として共に日本を連覇に導いた二人。
ライバルとして、チームメイトとして日本プロ野球を盛り上げてくれました。
15 もうひとりゴールデンルーキー上原投手からオールスターで本塁打
1999年に松坂大輔投手と共に球界を騒がせたのが当時読売ジャイアンツに所属していた上原浩治選手。
当時は交流戦がなかったため二人が直接対決したのはオールスターのみでした。
イチロー選手は前の打者を2者連続で三振にとっていた上原投手からセンターバックスクリーンへ本塁打を放って見せます。
この年のオールスターは松坂大輔、松井秀喜、古田敦也、松井稼頭央、高橋由伸選手。
長嶋茂雄、王貞治、星野仙一監督。
とそうそうたるメンバーがいました。
日本プロ野球が最も賑わっていた時期の一つと言っても過言ではありません。
その中でも一際輝く活躍をしたイチロー選手はやはりスター中のスター選手です。
16 幻の4割 さようならイチロー
2000年、イチロー選手は異例のシーズン中にポスティングシステムを利用してのメジャーリーグ挑戦の意向を表明。
翌日の神戸での本拠地最終戦で9回に守備固めとして出場。
前日の記者会見を聞いたファンの声援に応えるため、イチローは手を振って応え、ファン一人一人と別れの握手をした。
怪我で105試合の出場にとどまったが、日本プロ野球歴代2位(及びパ・リーグ記録)となるシーズン打率.387を記録。
通算7度目の首位打者(日本プロ野球記録)を獲得。
6年連続となる最多敬遠(パ・リーグ記録)も記録。
7年連続通算7度目となるベストナイン・ゴールデングラブ賞(史上初)
日本最終年も変わらぬ輝きを放ち続けました。
17 日本人初のメジャーリーガー野手誕生
ポスティングシステムを利用してシアトル・マリナーズへ移籍。
野手としては日本人初のメジャーリーガーとなった。
マリナーズ入団の記者会見で初めてユニフォームに袖を通したとき、イチロー選手は笑顔でくるりと身体を回して背番号を見せてくれた。
その様子から、イチロー選手が少年のように自分の可能性にワクワクしている姿が印象的でした。
18 伝説の始まりはセンター前
2001年のメジャー開幕戦に1番・右翼手で先発出場。
第4打席にセンター前へメジャー初安打を放った。
この年、新人選手として初のメジャーシーズン200安打を放った時も、メジャー年間最多安打記録を塗り替えた時も、2009年WBCで決勝タイムリーを放ったときも全てセンター前。
イチロー選手は高校時代、「センター前ならいつでも打てる」と発言したこともあるそうです。
常に原点はセンター前。
この瞬間からメジャーでのイチロー伝説が始まったのです。
19 レーザービーム初披露 "the Throw"
今なお語り継がれる伝説の守備。
イチロー選手の代名詞となった強肩から放たれるレーザービーム。
それをメジャーで初披露したのが、4月11日のアスレチックス戦。
ライト前ヒットで三進を試みた一塁走者のテレンス・ロングを正確かつ力強い送球で三塁に補殺。
実況アナウンサーが「イチローからのレーザービーム攻撃だ!」と叫んだことが由縁。
この補殺がイチロー選手のメジャー最初の補殺にもなりました。
実はこのプレーが起こった背景にはファンからのイチロー選手への差別行為がありました。
激しい罵声、投げ込まれる紙コップやボトルキャップ、コイン。
一枚の25セント硬貨がイチローの後頭部を直撃したこともあったそうです。
その直後に披露したのが "the Throw"だったのです。
イチローは試合後に「あれをもう一度やれと言われても、もう見せられない」と語ったように、ファンからの差別的な行動による怒りがエネルギーとなり、このメジャー史に残る"神技"が生まれた一因となったといえる。
差別的な行為にはプレーでやり返す。
イチロー選手の技術と精神力が並外れたものであることを証明したプレーだったのです。
20 オールスターで新旧51番対決
開幕から好調を維持したイチロー選手はオールスターゲームではファン投票で337万票を獲得。
日本からの68万票を差し引いても両リーグ通じて1位となる得票数で初選出されました。
偶然の巡りあわせかその年のオールスターはイチロー選手が所属するマリナーズの本拠地セーフコ・フィールド
そのオールスターではナリーグ先発のランディ・ジョンソンと対戦。
強烈なあたりを一塁に放ち、ベースカバーに入るランディ・ジョンソン投手とイチロー選手が競争した姿は非常に印象深いです。
結果的にイチロー選手の足がまさり、内野安打。
実はランディ・ジョンソン投手はイチロー選手の前にマリナーズで51番をつけていた選手。
メジャーでは実績がないイチロー選手が51番をつけることに対して、「ランディの功績を台無しにする」「ランディを侮辱している」あまり好意的には見られていなかった。
しかし、イチロー選手は自分が51番をつける資格が十分にあることをランディジョンソンとの直接対決でシアトルのファンに結果で証明してみせたのです。
21 歴史的な強さでリーグ優勝
この年のマリナーズはシーズン116勝(メジャータイ記録)で地区優勝。
キャメロン、オルルッド、エドガー・マルティネス、モイヤー、ガルシア、佐々木主浩らのそうそうたるメンバーをようした。
ただその中でも一番活躍したのがイチロー選手。
イチロー選手の活躍が化学反応を起こしチーム、メジャーの歴史に残る記録が生まれたのです。
22 メジャー新人最多安打
シーズン242安打を放ち、メジャーの新人最多安打記録を更新。
当時の歴代9位に迫る記録を残し、イチロー選手の存在を強く全米に知らしめる快挙となった。
この年残した打率.350はアメリカンリーグ1年目選手の歴代最高打率。
23 新人王とMVP タイトル総ナメのデビューイヤー
新人王・MVP・首位打者・盗塁王・シルバースラッガー賞・ゴールドグラブ賞と数多くのタイトルを獲得。
新人王とMVPに同時に選出されたのはイチローのほかには1975年のフレッド・リンのみ。
史上二人目の快挙となった。
24 メジャーでも不動のスーパースターへ
メジャー3年目の2003年にオールスターのファン投票で新人から3年連続で両リーグ最多得票を獲得。
ファン投票の連続最多得票はケン・グリフィー・ジュニア以来史上2人目の快挙。
イチロー選手が尊敬してやまないケン・グリフィー・ジュニアに肩を並べる形となった。
3年やって一人前と言われる世界で自身の立場を確固たるものとした年になった。
25 日米通算2,000安打達成
メジャーに来て初めてレギュラーとして余裕を持ってシーズンに入れたと語ったイチロー選手。
史上最速となる日米通算2000安打を達成。
日米合わせての記録にも関わらず、周囲が祝福してくれたことに、イチロー選手は非常に感銘を受けたと語っています。
これだけの大記録が一つの通過点としてあまり語られていないことに、イチロー選手の凄みが感じられます。
※関連記事→史上初の年間6人同時達成か!? 2017年プロ野球の2000本安打達成日を予想してみた
26 驚異の固め打ち
4月は打率2割代と不振だったイチロー選手。
5月に月間50安打を記録して一気に状態を上げる。
最終的に史上初となるシーズンで3度月間50安打を達成。
9/4に敵地で行われたホワイトソックス戦では5打数5安打の大活躍。
相手エースバーリ投手(メジャーで200勝を上げた大投手)が、試合中にも関わらず、イチロー選手に脱帽して敬意を表した。
イチロー選手が5安打放った瞬間に敵地にも関わらず、ホワイトソックファンが拍手でイチロー選手を称えた。
メジャーという舞台は結果を出した選手に対して、相手であろうが敬意を表する。
多くの日本人選手がメジャーに憧れを抱く理由の一つでもあります。
個人的には日本の野球界でもこういうシーンが増えると良いと感じています。
27 シーズン最多安打記録更新
イチロー選手の成し遂げた偉業を三つあげろと言われたら確実に上がる偉業。
それがメジャーシーズン最多安打記録の更新。
84年間破られなかったジョージ・シスラーのメジャー歴代シーズン最多安打記録の257安打を更新したのです。
メジャーリーグにいくつか存在する「アンタッチャブルレコード(不滅の大記録)」
その数字もさることながら、ジョージ・シスラーという忘れかけられていた偉大な選手の名を現代に蘇らせたことが何より素晴らしい偉業。
記録達成した試合に駆けつけたジョージ・シスラーの親族が暖かな笑みと拍手を送ってイチロー選手を称えたシーンは日本人選手という人種の壁などないことをメジャーリーグが証明した瞬間でもありました。
28 スパイダーマン、シアトルに現る
2005年のエンゼルス戦で、イチロー選手はフェンスによじ登り、ホームラン性の当たりをキャッチ。
このスーパープレーにアメリカメディアは「スパイダーキャッチ」として賞賛した。
この試合は8回終わって5点差。
展開的には諦めてもよさそうな場面ですが、イチロー選手は最後まで諦めない姿勢を技術と共に見せたのです。
29 メジャー通算1,000本安打
1900年以降3番目のスピード記録となる696試合目でメジャー通算1000安打を達成。
1試合1.4本の驚異的なペースで安打を量産しました。
30 WBCで見せた闘志剥き出しのチームリーダーイチロー
2006年第一回WBCに日本代表として参加したイチロー選手。
「オリンピックはあくまでもアマチュアのための大会。自分はプロ」として国際試合に不参加だったイチロー選手が初めて日本代表に参加。
アメリカで行われた完全アウェイのアメリカ戦。
日本代表が雰囲気に飲み込まれないよう、狙って先頭打者本塁打を放ちチームを鼓舞した。
韓国戦で苦杯を嘗めさせられた時は「野球人生で最も屈辱的な試合」とコメントし話題になった。
決勝戦のキューバ戦でも活躍し、日本代表を初代WBCチャンピョンに導いた。
全試合で安打を記録し、打率.364(33打数12安打)、1本塁打、5打点、5盗塁、7得点。
外野手部門のベストナインに選ばれた。
31 アメリカンリーグ連続盗塁成功記録樹立
2007年に 、シーズンを跨いで41連続盗塁に成功。
最終的に45盗塁で記録はストップした。
メジャー記録である、50連続盗塁成功に迫る記録となった。
イチロー選手は野球で最も難しいプレーを盗塁だと語っている。
3割で十分な打撃と比べて、走塁は常に100%を求められるからです。
走塁に確実性を重視するイチローの心情が結果となって現れたのがこの結果だ。
結果となって表せるのがイチロー選手の凄いところなんですけどね....
※関連記事→りんごを持った盗塁王 西武外崎修汰選手は外野版片岡治大になれる逸材
(日本記録は2015年に現ソフトバンクホークス福田秀平選手が記録した32です。)
32 オールスター史上初のランニング本塁打
7年連続で出場したオールスターゲームで、オールスター史上初のランニング本塁打を
記録。
本塁打を含む3打数3安打2打点の活躍で日本人初となるオールスターMVPを受賞した。
ランニング本塁打はパワー、スピード、テクニックだけでなく運の要素も必要とされる。
その偉業を大舞台で達成するあたりにイチロー選手が”持ってる”ことが伺える。
33 7年連続200安打をロジャー・クレメンスからの本塁打で飾る
9月3日のニューヨーク・ヤンキース戦ではロジャー・クレメンスから本塁打を放ち、7年連続200安打(史上3人目)を達成。
イチロー選手はメジャー新人選手初となる4年連続200本安打も本塁打で決めています。
この年はプレッシャーから逃げないことを掲げて自分を追い込んだイチロー選手。
史上初となる打率.350以上で首位打者を逃してしまった。
首位打者を逃すのが決定的になった打席の後、試合中にも関わらずイチロー選手が守備時に涙を浮かべたのが印象的でした。
最終的には2001年以来2度目となるシルバースラッガー賞を受賞。
34 中堅手としてゴールドグラブ賞を受賞
イチロー選手と言えば通称「エリア51」と称される右翼手として有名な選手。
しかし、2007年はは右翼手ではなく中堅手としてプレー。
その中堅手としても自身初となるゴールドグラブ賞も受賞。
これはアンドレ・ドーソン以来となるシーズン途中のコンバートなしでの右翼手と中堅手両方での受賞となった。
オリックス時代から2017年所属のマーリンズに至るまでイチロー選手は外野の3ポジションで高い守備力を見せる。
肩、守備範囲だけでなく、守備のユーティリティ性にも優れるのがイチロー選手の凄み。
ちなみにイチロー選手は2017年に6月25日、カブス戦に「1番・センター」で先発出場。
この出場はセンターでの先発出場のメジャー史上最年長記録となりました。
中堅手として43歳246日で先発するのは、史上1位の通算1406盗塁、同22位の3055安打を誇るリッキー・ヘンダーソンがレッドソックス時代の02年にマークした43歳211日を上回る史上最年長記録となった。
引用:イチロー 史上最年長センター先発 ヘンダーソン上回る43歳246日― スポニチ Sponichi Annex 野球
年齢を重ねてもイチロー選手の守備・走塁・肩が全く衰えていないことを象徴する新たな伝説を打ち立てたのです。
35 古畑任三郎に犯人役で出演
2006年には『古畑任三郎 ファイナル』第2話に、主人公・古畑と対決する犯人役「シアトル・マリナーズのイチロー」として出演した。
脚本家である三谷幸喜は殺人犯役で「イチロー」の名前を使うのはためらい、「ハチロー」のような役名や別の職業することを提案。
しかし、イチロー本人が「これは本人役じゃないと面白くない。自分を演じたい」と熱望したため、そのまま「シアトル・マリナーズのイチロー」となった。
撮影に当たっては台詞を完璧に憶えてNGはほとんどなく、主演の田村正和は「役者の鑑」と評した。
視聴率は27%で、12年続いたシリーズの中で7番目に高いものとなりました。
36 史上初の3年連続両リーグ最多安打を記録
2008年は苦しみながら8年連続の200本安打を記録。
史上初となる3年連続両リーグ最多安打を記録した。
NPB/MLB合わせて12回記録している最多安打は、すべて両リーグ最多安打。
最多安打を逃した2002年・2003年・2005年シーズンはリーグ2位。
安打を放つことに置いてイチロー選手がメジャートップクラスであることがこの数字からも伺える。
37 WBC連覇達成 伝説の決勝タイムリー
2009年、WBC連覇を期待されたイチロー選手は大会前の監督選考から強い影響力を示す。
「守るではなく、奪う気持ちが大事」と語り、誰よりも強い意気込みで大会に臨んだ。
大会開幕前の練習試合か極度の打撃不振に陥り、大会開幕後も打率.200前後という絶不調。
それでも原辰徳監督は全試合を通して1番として起用。
その期待に応え、決勝の韓国戦で、6打数4安打、延長10回に林昌勇から決勝の2点適時打を放つ活躍で連覇に貢献。
イチロー選手がまた一つ伝説の階段を駆け上がった瞬間でした。
個人的に印象の残っているのは大会初戦の韓国戦で放った初回のヒット。
前年の北京オリンピックで苦戦したキムガンヒョン投手のスライダーをイチロー選手がいきなり捉えたのだ。
このプレーによってチーム全体が「いけるっ!」という雰囲気になった。
2006年大会のアメリカ戦同様チームをプレーで鼓舞してくれたのだ。
この大会はイチローに始まり、イチローに終わった大会という言葉がふさわしいです。
38 キャリア初の故障者リスト入り
WBCでの極度の緊張状態が影響して、 イチロー選手は胃に出血性の潰瘍を患ってしまう。
その結果自身初となる故障者リスト入りをしてしまう。
MLB通算16年で、毎年平均で約156試合に出場しているイチロー選手。
21世紀以降メジャーリーグの試合に最も多く出場した選手でもあります。
そんなイチロー選手でも耐え切れないほどの重圧がかかっていたWBC。
同時に当たり前のように試合に出続けていたイチロー選手の偉大さがわかるエピソードでもあります。
39 日本最多安打記録をど派手な満塁本塁打で更新
故障からの復帰戦はイチロー選手にとっての2009年シーズンの開幕戦となった。
その試合でイチロー選手は張本勲氏が持つ日本最多安打記録の3085本にNPB/MLB通算で並ぶ満塁本塁打で並んで見せた。
翌17日に3086本として、安打日本記録をNPB/MLB通算で更新した。
両試合には前記録保持者の張本勲氏も駆けつけた。
イチロー選手が記録達成した際には、セーフコフィールドで前記録保持者として張本勲氏が紹介された。
異国の記録を紹介して、称えるメジャーの懐の広さは日本が見習うべき点の一つだ。
40 メジャー通算2000安打を達成
9月6日のアスレチックス戦で右翼線へ痛烈な二塁打を放ち、メジャー通算2000安打を達成。
9シーズン目での到達は史上最速、1402試合目での達成はアル・シモンズの1390試合に次ぐ史上2番目のスピード記録。
41 連夜のサヨナラ打
9月17日のシカゴ・ホワイトソックス戦で自身メジャー2度目のサヨナラ打を記録。
翌18日のニューヨーク・ヤンキース戦にて1−2で迎えた9回裏、2アウト2塁の場面でマリアノ・リベラから自身メジャー初となる逆転サヨナラ本塁打を記録。
メジャー史上最高、当時全盛期のリベラ投手から放った劇的な一打は数あるイチロー選手の中でも非常に有名な一本。
リベラ選手の通算1,000奪三振達成試合をイチロー選手は手荒い祝福をして見せたのだ。
リベラからサヨナラHRを放ったのはイチローで5人目。リベラは自己最多の連続セーブ記録が36で途切れた。「あの2球で試合に負けた。引き締まったすばらしい試合だっただけに、あのミスは許されない」
42 キャリア初にして唯一の退場処分
26日のトロント・ブルージェイズ戦で2ストライクからの外角球を見逃すと判定はストライク。
この判定にバットでボールの通過地点を示すなどして抗議。
この行為が球審に対する侮辱行為ととられ、イチロー選手は日米通じて自身初の退場処分を受ける。
この時イチロー選手がバットでボールの通過地点を示した点が実際に通過した点と重なり、かつホームベースを通過していなかったことでも話題になった(ようはボール球)。
43 10年連続200本安打
2010年は自身が持つ9年連続200安打の記録を伸ばし10年連続200本安打とした。
10度のシーズン200安打はピート・ローズと並ぶ大リーグ史上1位タイ記録。
「打率3割」「200安打」「オールスター選出」「ゴールドグラブ賞」についても10年連続に伸ばした。
44 キャリア初の大不振
2011年はイチロー選手にとって転機となるシーズンになった。
5月以降は一度も月間打率3割を記録出来ないまま、打率.272、184安打でシーズンを終了。
メジャー移籍後10年連続で達成してきた「打率3割」「200安打」「オールスター出場」が途切れた。
日米通算で17年継続していた打率3割が途切れました。
プロ3年目に初めて規定打席に到達してからはワーストの記録となった。
オフにはイチロー選手の衰えを指摘する声が相次いだ。
45 ヤンキースへの電撃移籍
2012年のシーズン途中、 イチロー選手は自ら志願してニューヨーク・ヤンキースへ移籍した。
変化が必要なマリナーズのチーム状況と、イチロー選手自身刺激を求めた上での決断となった。
オリックス時代から慣れ親しんできた背番号51は、ヤンキースではイチロー自身も憧れていたバーニー・ウィリアムスがかつて付けていた番号ということもあり「とてもつけることはできない」と固辞し、背番号は31となった
ちなみにイチロー選手はメジャー通算本塁打を新しい本拠地であるヤンキースタジアムで放っている。
46 マリナーズ凱旋試合
移籍後初の試合になったのがセーフコフィールドでのマリナーズ戦。
敵となったイチロー選手に対して、シアトルのファンからは大きな声援が送られた。
イチロー選手がいかにマリナーズから愛されていたかがわかるエピソードである。
マリナーズ時代、セーフコ・フィールドの右翼席最前列で、イチローの年間安打数をカウントする「ICHI-METER(イチ・メーター)」という手作りの紙ボードを掲げて応援していたエイミー・フランツさん。
エイミーさんは1996年から毎年シーズンチケットを購入している熱心なマリナーズファン。
安打数のカウントは、イチロー選手が最多安打記録を達成した2004年シーズンから開始。
262安打をカウントした初代イチ・メーターはアメリカ野球殿堂に寄贈されている。
イチロー選手のヤンキース移籍直後のセーフコフィールドでのマリナーズ戦にもイチ・メーターを持参。
イチロー選手は試合前に感謝の意を込めてボードにサイン。
イチローはこの年の11月に、サインを入れたマリナーズ時代のバットやスパイクと共に、感謝の気持ちを綴った手紙を贈った。
その後もエイミーさんはイチメータ活動を続け、イチロー選手の記録がかかった試合では折に触れて駆けつけている。
47 ポストシーズンで見せた伝説のスライディング
ヤンキースに移籍し、 12年ぶりのポストシーズンを戦うことになったイチロー選手。
オリオールズとのディビジョンシリーズ第2戦では二死一塁の場面でロビンソン・カノの二塁打の間に生還。
この場面では、完全にアウトのタイミングで三塁を回ったが、相手捕手ののタッチを2回かわしてホームイン。
このホームインは各所で話題を呼び、「忍者」と言った呼び方や、映画の『マトリックス』にちなんで「Matrix」、「サルサダンス」などと呼ばれ大きな反響を呼んだ。
ESPNはこのスライディングを「ひょっとしたらヤンキースの歴史の中でも最高のスライディング」とまで報道した。
【イチローsuper play】 Suzuki Ichiro 忍者並みのホーム帰還!!!
48 シアトルマリナーズの伝説の4人に選出
2015年、活躍の舞台をマイアミ・マーリンズに移していたイチロー選手。
MLBの各球団最高の4選手を選ぶフランチャイズ・フォーという企画があり、シアトル・マリナーズのなかで ケン・グリフィー・ジュニア、フェリックス・ヘルナンデス、エドガー・マルティネスと共にイチロー選手が選出された。
打数、安打、盗塁など数々のマリナーズ球団記録を持つイチロー選手が選ばれるのは当然の結果となった。
49 日米通算4257安打で世界記録達成
2016年、6月15日の敵地パドレス戦で先発出場したイチロー選手。
第5打席でフェルナンド・ロドニーから右翼線の二塁打を放ち日米通算4257安打となり、日米通算安打でMLB最多安打記録を更新した。
6月24日には6月15日にマークしたNPB/MLB通算4,257本目の安打がプロ野球における通算最多安打数の世界記録としてギネス記録に認定された。
日米通算成績はあくまで非公式記録。
記録を更新されたピート・ローズ氏は記録が参考記録であると主張。
イチロー選手自身も「僕としては日米 (NPB/MLB) 合わせた数字ということで、どうしたってケチがつくことは分かっているし、ここに目標を設定していなかった」と発言。
50 メジャー史上30人目の3,000本安打
2016年の8月7日、 コロラド・ロッキーズ戦で先発出場したイチロー選手。
ライトフェンス直撃の三塁打を放ち、史上30人目のMLB通算3000安打を達成。
16シーズン目での3000安打到達はピート・ローズと並び史上最速タイ記録となりました。
この記録をアジア人選手で記録したのは初めて。
記録達成後、ベンチで涙を流すイチロー選手の姿が話題にもなりました(本人も涙を流したこと認めている)。
3塁打で3,000本安打を決めるのは史上二人目。
脚力が求められる三塁打。
3,000本を放つ時点で多くの選手が身体的に衰えているものです。
そのため、三塁打を放つのは非常に難しいこと。
この一打にはまだまだイチロー選手が衰えていないことが現れた一打なのです。
ちなみにイチロー選手はメジャー1,000本安打をシングル、2,000本安打をツーベース、3,000本安打をスリーベースで達成しています。
このままいけば4,000本安打を.....
2017年7月6日ののカージナルス戦でマルチ安打を放ったイチロー選手。
これでメジャー通算3054安打に到達。
3053安打のロッド・カルーを一気に抜き去り、歴代24位に浮上しました。
この記録は米国出身以外の選手で歴代単独1位。
記録達成時のイチロー選手のコメントは下記の通り。
イチローの話(通算安打で歴代24位のロッド・カルーを上回り)誰の記録かということが(僕には)重要。(カルー氏から)手紙をもらったり、実際にお会いしたときもすごく僕のことを気に掛けてくれている空気が伝わってきた。(引退して)時間がたつと野球のことが簡単にできると思う人が多い中で、あれだけの成績を残した人があの雰囲気でいられる。ちょっと王さん(プロ野球ソフトバンクの王貞治会長)に通じるものが僕の中であって、そういう意味で特別な記録だった。
引用:イチロー、カルー上回り感慨「誰の記録かということが重要。特別な記録」 (スポニチアネックス) - Yahoo!ニュース
カルー氏からは「あなたはバットを操るアーティスト。その技術で放つヒットを見るのはいつも楽しい」とコメントされました。
まだまだ衰えぬイチロー選手の記録ラッシュに期待がかかります。
51 シアトル凱旋試合で放った劇的なアーチ
2017年、オリックス・ブルーウェーブに所属していた唯一の選手となったイチロー選手。
イチロー選手はマーリンズ移籍後初めてセーフコ・フィールドでプレー。
最終戦の最終打席で劇的なソロ弾を放ち、スタンディングオベーションを受けた。
その一打はシアトルのファンはもちろんのこと全米各地を驚かせるものとなった。
「なぜ野球が最も偉大なのか思い出させてくれる、4月に起きた10の瞬間」と題し、「(メジャー開幕の)初月に野球界で起きた最高の、そして最も楽しい10の瞬間」を選出。第4位にイチローがかつての本拠地セーフコ・フィールドで放った今季1号を選んだ。
イチロー選手は節目の記録を本塁打で飾ることが多いです。
本人も打った本塁打の中に偶然はないと公言しています。
日本通算1,000、100号本塁打を松坂から、メジャー史上初の4年連続200本安打、WBCアメリカ戦、メジャー通算100号を移籍先のヤンキースタジアムで放つなどなど、数々の本塁打を意図的に打っています。
その衰えぬ体力と技術で今後もファンをわかせてくれるでしょう。
なお、この本塁打でNPB時代から続く25年連続本塁打の記録を樹立。
単純比較はできませんが、リッキー・ヘンダーソンが持つMLB記録に並びました。
しかも、MLB通算打点も761とし、松井秀喜氏の760打点を超え、日本人メジャーリーガーで歴代1位。
普段は本塁打や打点で注目されることの少ないイチロー選手ですが、しっかりとその名を刻みました。
2017年に達成された記録一覧
- 通算24球団目の本塁打(松井秀喜の23球団を抜き日本人メジャーリーガー歴代最多記録)
- 中堅手のスタメン最高年齢MLB記録(43歳246日)
- NPB/MLB通算5863塁打(日本歴代最多)
2018年の去就 日本復帰の可能性は?
2018/1/18時点で、所属先がないイチロー選手。
報道によると現在もメジャー球団と交渉中も、交渉は難航。
基本線はメジャーでの現役続行としながらも、日本での現役復帰の可能性もあるとのこと。
「イチローが日本球界に復帰するかもしれない」。メジャー公式サイトの古株記者バリー・ブルーム氏が、インパクトのある記事を書いた。イチローの代理人ボッグス氏が、大リーグからのオファーがなければ選手生活の最後に日本でプレーするかもしれない、と示唆したという。「それ(日本球界復帰)については本当に考えたくない」と言い、「彼が(メジャーの)どの球団にとっても素晴らしい財産になるということに、誰かが気づいてくれるという期待を持ち続けている」と続けたという。
イチロー選手からの公式発表はありませんが、日本復帰を完全に否定しているわけではない模様。
2017年の川崎選手のように、シーズン開幕前後までメジャーでのプレイを模索しながら、オファー次第では日本復帰の可能性もありえます。
いずれにせよ、所属先が決まるのは2月以降にずれ込む見通し。
日米のどこかしらの球団からのオファーはあるでしょうから、2018年も現役続行が濃厚です。
※2018/3/6追記
イチロー選手のマリナーズ復帰が濃厚となりました。
マーリンズからFAとなっていたイチロー外野手(44)が、古巣マリナーズと1年のメジャー契約でほぼ合意に達したことが5日(日本時間6日)、分かった。メジャー関係者が大筋で認めたほか、複数の米メディアも相次いでツイッターなどで伝えた。
ケン・グリフィー・Jrに憧れたイチロー選手が、そのケン・グリフィー・Jrと同じような軌跡を辿るとは..。
まだまだイチロー選手の伝説は続くようです。
大谷翔平選手との直接対決も期待されます。
【2018年版】エンジェルス大谷翔平と日本人選手対決日程と見どころまとめ【日本人メジャーリーガー一覧も】
2018年は球団特別アドバイザーに就任し、シーズン途中から試合出場なし
2018年のシーズンが開幕して約1ヵ月が経過した5月、衝撃のニュースが飛び込んできました。
イチロー選手が球団特別アドバイザーに就任し、シーズン途中から試合出場しないことが決まったのです。
米大リーグで歴代21位の通算3089安打を放ったマリナーズのイチロー外野手(44)が球団の特別アドバイザーに就任し、選手としては今季の残り試合に出場しないことが3日、複数の球団関係者の話で分かった。
ベンチ入りの25人枠から外れるが、球団と生涯契約を結んでチームに同行し、練習しながら選手らをサポートする。来季以降は試合出場も可能という。米国時間3日(日本時間4日)に発表される。
関係者によると、メジャーでも極めて異例の契約内容。本人は従来50歳まで現役続行を公言するなどプレーをする意欲は高く、来季以降にマリナーズの一員として故障者が出た場合などに選手としてプレーする可能性があるという。この契約を結ぶことで日本球界に戻る可能性はなくなった。
マリナーズは4日(日本時間5日)から本拠地シアトルでエンゼルス3連戦を予定しているが、大谷翔平との対戦もなくなった。
イチローは昨季限りでマーリンズからフリーエージェント(FA)となり、2012年途中まで在籍したマリナーズに6年ぶりに復帰。大リーグ現役最年長野手で、今季は控え外野手としてチームの29試合のうち15試合に出場。先発出場したのは13試合で、9安打、打率2割5厘にとどまった。
メジャーでも前例のない契約ですが、引退ではありません。
2019年以降の試合出場の可能性は残されています。
ただ、2018年のシーズン途中に日本球界復帰することはありません。
日本からアメリカに渡った際、そして引退のかかった2018年。
二度に渡って自分を拾ってくれて球団に対するイチロー選手の忠誠心と、球団がイチロー選手を高く評価したことが、今回の異例の契約を生みました。
まだ現役引退ではありません。
いつかもう一度あの雄姿を見られる日を首を長くして待っています。
詳細は、「【大谷翔平との対戦消滅】マリナーズ・イチローが球団特別アドバイザー就任で2018年は残り試合出場なし【実質準引退】」の記事でご確認ください。
まとめ
51でも全く伝えきれないイチロー選手の伝説。
記録にも、記憶にも残るイチロー選手の次なる伝説は何か。
50歳までの現役を公言するイチロー選手が私たちの予想を良い意味で裏切り続けていくことに期待しています。
それでは、さようなら!
関連記事
・歴代最高のショート&スイッチヒッター!松井稼頭央伝説ベスト32
・平成元年生まれが選ぶ平成プロ野球歴代ベストナイン【2017年版】
・【あなたの野球ライフを応援】おすすめのプロ野球中継有料動画配信サービス比較
youtubeチャンネルのご紹介とお願い
私のyoutubeチャンネルで主に実況パワフルプロ野球のプレイ動画を配信しています。
内容はペナントのオーペナ検証や、栄冠ナイン(高校野球の監督プレイ)の実況。
興味がある方は、是非一度ご覧になってみてください。
※できればチャンネル登録をよろしくお願いします(切実)