どうも、はろーぐっばい(@jubenonz)です。
本日は、平成最高の天才高橋由伸伝説ベスト24をご紹介します!
私が子供の頃は、現代のプロ野球界のレジェンドたちがまだ20代前半。
天才イチローが安打を量産し、松井秀喜がとんでもない飛距離の本塁打をかっ飛ばし、平成の怪物松坂大輔が伝説を打ち立てる...。
その他にも古田敦也、上原浩治、松井稼頭央といった今でも語り継がれるスーパースターたちがプロ野球界を席巻していました。
その天才たちに勝るとも劣らない、いやそれ以上の輝きを放っていたのが現在巨人の監督を務める高橋由伸。
誰もが天才と認めるその才能をプロ野球関係者の誰もが絶賛。
高橋監督のデビュー時、私は小学3年生だったのですが、当時の子供たちの憧れは天才・高橋由伸に集中していました。
走攻守揃ったプレイスタイル、美しいバッティングフォーム、端正な顔立ち、紳士的な受け答え。
誰もが21世紀最高のスタープレイヤーになると信じて疑わなかった、他にはない優雅さと品のある野球選手でした。
しかし、その才能の全てを活かしきれたわけではありません。
紆余曲折あった入団経緯、故障続きだった現役生活、電撃の引退、監督時代の13連敗。
野球の輝かしくて華やかな面と辛くて過酷な面。
その両方を味わった悲運のスーパースター・高橋由伸伝説を代名詞の背番号24にちなんでご紹介していきます。
- 1 中学時代は4番・エースで全国大会2連覇
- 2 平成大学最強打者伝説
- 3 ルーキーイヤーから大活躍
- 4 川上憲伸とのライバル対決
- 5 覚醒した2年目
- 6 史上最速の1億円プレイヤー
- 7 プロ入り初のスランプ 悩んだ3年目
- 8 球団通算100号サヨナラ本塁打&7500号本塁打
- 9 2年連続で全試合出場
- 10 選手会長就任
- 11 11打数連続安打、14打席連続出塁のプロ野球タイ記録を樹立
- 12 オリンピックで銅メダルを獲得
- 13 史上8位の速さで1,000本安打
- 14 故障が続いた悩めるチームリーダー
- 15 史上最強の攻撃的1番バッター
- 16 10年連続2桁本塁打も達成
- 17 引退と隣り合わせの腰痛に苦しめられる
- 18 初体験づくしの2010年 なりふり構わぬ姿勢の天才
- 19 史上108人目となる1500本安打を達成
- 20 統一球も天才には関係なし
- 21 史上37人目となる300本塁打を達成
- 22 錆びつかない天才の才能
- 23 晩年は代打の切り札
- 24 衝撃の引退 電撃監督就任
- 高橋由伸通算成績と獲得タイトル
- youtube企画
- まとめ
- 関連記事
1 中学時代は4番・エースで全国大会2連覇
天才の才能はアマチュア時代から遺憾なく発揮されていました。
左利きではないものの、自然と左打ちを習得。
プロになってから持ち味となった強肩を幼少期からもいかんなく見せつけました。
中学時代は4番・エースで千葉ジャガーズを全国大会2連覇に導く。
千葉ジャガーズ時代の尾添監督によると、「打率は7割近くあり、中学1年生の頃から100mを超える打球を連発していた」そうです。
その才能は指導者だけでなく、対戦相手も認めるほど。
同じ千葉県出身で高橋由伸選手の2歳年上にあたる石井一久投手(元ヤクルト)は、中学3年生の時から中学1年生の高橋選手の才能を認めていたそうです。
本人はそこまで野球に思い入れがなかったものの、「周囲が喜んでくれる」ことが嬉しくて野球を続けていたそうです。
野球を辞めたかったそうですが、周囲に懇願されて神奈川の名門・桐蔭学園高等学校に進学。
一年生の春からレギュラーになり、甲子園に出場。
プロから一目置かれる存在になりましたが、本人は勉学への意欲を示して憧れの慶應義塾大学に進学。
2 平成大学最強打者伝説
1年春からレギュラーを任されると、その才能が更に開花。
3年時の春季リーグ戦では打率.512、5本塁打を記録して戦後8人目の三冠王を獲得。
三冠王獲得後は相手のマークが厳しくなり、2日間で7四球を記録するなど、勝負を避けられるケースが増えました。
本人曰く「振るという楽しみを味わえない」ストレスがあったそうです。
ただ、この時の経験が甘い球を逃さない感覚を養うことにつながり、プロ入り後のファーストストライクを積極的に打つスタイルを生み出すきっかけになりました。
大学時代は全試合にフルイニング出場。
本塁打王3回、打点王1回、首位打者1回。
田淵幸一の持つ東京六大学リーグ本塁打記録を更新して歴代1位となる通算23本塁打を放ち、大学史上最高の打者にまで成長。
大学日本代表でも本塁打を放つなど、アマチュア屈指の打者に成長しました。
意外ですが、高橋由伸本人がプロ入りを考え始めたのは大学2年生頃。
本人の野球熱とは対照的に、周囲が放ってはおけない選手になっていきました。
3 ルーキーイヤーから大活躍
プロ野球団による激しい争奪戦の末、逆指名で巨人入り。
ルーキーイヤーとなった1年目から外野手のレギュラーを掴みました。
端正な顔立ちと実力も相まって、一躍人気選手に。
オールスターゲームのファン投票では新人史上最多の51万4351票で選出されるなど、その人気は巨人ファンだけに留まりませんでした。
実力の方も5番打者として安定した活躍を見せ、終わってみれば打率.300、19本塁打、75打点、OPS.852。
いずれもリーグ10位内に入る大活躍。
プロ1年目での打率3割(規定打席到達)は史上7人目、セ・リーグでは長嶋茂雄以来40年ぶり。
アマチュア時代からの勝負強さも健在で、新人では史上初の満塁本塁打3本を記録しました。
9月11日の広島戦で大野豊投手から放った東京ドームのバックスクリーンへの一撃は、大野豊に引退の決意をさせるものでもありました。
98年は血栓症が再発して、もうさすがにやめる時期かな、と感じていました。そんなとき、巨人のルーキーの高橋由と対戦する試合がありました(8月4日、東京ドーム)。私は巨人の大物ルーキーには自信があったんです。原(辰徳内野手、現巨人監督)も松井(秀喜外野手)も初対戦の打席は三振させています。でも、由伸には、この自信が通用しませんでした。2球目のスライダーをものの見事に右翼席へたたき込まれてしまった。私は、「ああ、これでやめられる」と思いました。
安定した守備と強肩で新人外野手としては史上初のゴールデングラブ賞を受賞。
攻守に新人離れした活躍を見せ、一躍人気選手の仲間入りを果たしました。
4 川上憲伸とのライバル対決
歴史に名を残すルーキーイヤーを送った高橋由伸選手ですが、惜しくも新人王のタイトルは逃す結果に。
大学時代からのしのぎを削ってきたライバル川上憲伸(明治大学出身)が同じセ・リーグの中日ドラゴンズで大活躍。
川上投手が14勝6敗と活躍したことと、高橋選手との直接対決を22打数1安打(1本塁打)に抑え込んだことが評価されてのものでした。
大学時代の両者の対戦成績は打率.322(32-11)3本塁打。
高橋由伸が最も本塁打を打った投手が川上憲伸であり、川上憲伸が最も三振を奪ったのが高橋由伸でした。
当時は野球中継でも高橋選手が川上投手を打てないことがクローズアップされていました。
21世紀の野球界を背負っていく二人の対決を、子供ながらにワクワクしていたことを今でも覚えています。
クールな天才打者・高橋由伸VS闘志を燃やす力投型投手・川上憲伸。
二人のライバル関係はその後も続き、高橋選手は2001年にプロ通算100号本塁打、2008年には3者連続本塁打の口火を切るバースデーアーチを川上投手から放っています。
5 覚醒した2年目
高橋由伸選手の才能が大いに開花したのがプロ二年目の1999年。
周囲の”二年目のジンクス”への危惧の声などお構いなしの大活躍。
長打力が飛躍的に向上し、最終的には出場118試合で打率.315、34本塁打、98打点、OPS.966を記録。
終盤の怪我で惜しくもタイトルこそならなかったものの、この年の巨人の中心人物は間違いなく高橋選手でした。
パ・リーグ高卒新人最多本塁打の清原和博、セ・リーグ高卒新人最多本塁打の松井秀喜と形成するクリーンナップはアマチュア野球ファンにはたまらないトリオ。
清原和博氏の不振と怪我で三人が万全な状態で揃うことは少なかったですが、史上最もファンをワクワクさせたクリーンナップだったことは間違いありません。
この年は1998年のドラフト1位ルーキーの上原浩治、同じく2位の二岡智宏といった後の巨人を支えるスター選手がデビューした年でもありました。
ただ、それらの数多くのスター選手がいる中にあっても、誰よりも高橋選手が輝きを放っていました。
ポジティブな言葉を使う効果は絶大 カブス上原浩治選手の『覚悟の決め方』
6 史上最速の1億円プレイヤー
2年目の大活躍が評価され、オフには史上最速の1億円プレイヤーとなりました。
初のベストナインと2年連続のゴールデングラブ賞も獲得し、名実ともにスターの仲間入りを果たしました。
7 プロ入り初のスランプ 悩んだ3年目
天才の名を欲しいままにしてきた高橋由伸選手にスランプが訪れました。
ミレニアム打線と称された強力打線の中心である3番を任されたものの、序盤から不調。
途中からは江藤智に3番を譲り、6番に降格。
終始打率は2割代をうろつき、プロ3年目にして初の打率3割切りとなりました。
プロ初の全試合フルイニング出場で、打率.289、27本塁打、74打点、OPS.857。
並の大卒3年目なら文句無しの成績ですが、高橋由伸選手の期待値を考えれば満足のいくものではありませんでした。
当時中継を観ていて、「高橋選手でもこんなにも苦しむことがあるのか」と衝撃を受けたのを覚えています。
一年目から完成された選手だっただけに、”打てない”高橋由伸を観るのがかなり新鮮に映ったことを覚えています。
8 球団通算100号サヨナラ本塁打&7500号本塁打
プロ4年目の高橋選手はスターらしい活躍を見せました。
優勝を争う勝負の9月に球団通算100号サヨナラ本塁打を記録。
実は2002年に高橋由伸選手は球団通算7500号本塁打も記録しています。
持っている選手は球団の節目の記録を達成する星の下に生まれているのでしょう。
ちなみに、この2本の本塁打は偶然同姓の広島・高橋建投手から放っています。
9 2年連続で全試合出場
プロ4年目の2001年は2年連続で全試合出場。
2年ぶりの打率3割を達成しました。
ルーキーイヤーから4年間で3度の3割達成。
それでも持ち合わせている才能を考えると、物足りなさを感じさせられました。
打率.302、27本塁打、85打点、OPS.863。
これだけの成績を残しても「伸び悩み」の印象を受けさせるほど、当時の高橋由伸選手は期待されていました。
10 選手会長就任
2003年は松井秀喜選手のMLB・ニューヨーク・ヤンキースへの移籍を期に、高橋由伸選手にはチームリーダーとしての期待がかかりました。
新選手会長に就任し、ポジションもセンター。
開幕戦から4番を任され、 巨人の中心選手としての期待を一身に背負っていました。
11 11打数連続安打、14打席連続出塁のプロ野球タイ記録を樹立
2003年は優勝こそ逃したものの、自己最高の打率.323を記録。
シーズン途中には11打数連続安打、14打席連続出塁のプロ野球タイ記録を樹立。
OPSも.952を記録するなど、改めてその打撃技術の高さを見せつけました。
12 オリンピックで銅メダルを獲得
2004年はアテネ五輪の日本代表メンバーに選出。
主に3番・センターを任され、副主将も務めました。
チーム最多の3本塁打を記録し、チームの銅メダル獲得に貢献しました。
13 史上8位の速さで1,000本安打
2004年の本シーズンでも中心選手として活躍。
長嶋茂雄の849試合目に次ぐ、史上8位のペースとなるプロ850試合目での1000本安打を達成。
通年でも打率.317、30本塁打、79打点、OPS.966を記録。
オリンピック出場がなければタイトル争いに加わる可能性もあるほど、打撃が安定していました。
14 故障が続いた悩めるチームリーダー
2005~2006年は高橋由伸選手にとって苦しい時期が続きました。
度重なる故障で、2年連続規定打席未達。
全力プレイの代償として、ケガと隣り合わせだった高橋選手。
入団2年目の1999年、2005年、2006年、そして2011年とフェンス際での守備が原因で大怪我を負うことが多い現役生活となりました。
高橋選手の不調に呼応するように、チームは下位を低迷(2005年は5位、2006年は4位)。
チームリーダーの復活が待たれました。
15 史上最強の攻撃的1番バッター
2007年、高橋選手は不死鳥のごとく復活。
初めて1番バッターを任されると、その積極性と打撃が復活。
セ・リーグ史上初、プロ野球では45年ぶりの開幕戦初球先頭打者本塁打を記録。
この本塁打は歴代2位の3年連続開幕戦本塁打となり、 チームを勢いづけました。
最終的にはプロ野球新記録となるシーズン9本目の初回先頭打者本塁打を記録 。
打率.306、35本塁打、88打点、OPS.982の成績を残し、球史に残る1番バッターとなりました。
特に出塁率はキャリア最高の.404。
若いころは早打ちが目立ちましたが、この年を境に選球眼を劇的に向上させました。
高橋選手に引っ張られる形でチームは5年ぶりのリーグ優勝。
巨人にとって高橋選手はなくてならない存在であることを印象づけました。
16 10年連続2桁本塁打も達成
2007年は巨人では長嶋茂雄・王貞治・原辰徳・松井秀喜に次ぐ5人目の10年連続2桁本塁打も達成。
不調や怪我もありながらも、高橋選手が非凡な才能を発揮していたことを証明しました。
過去の達成者である歴代4番打者たちに負けない才能と責任があったからこそ達成できた記録でもありました。
17 引退と隣り合わせの腰痛に苦しめられる
2008年に腰痛を再発させ登録抹消。
これ以降、高橋選手は腰痛に度々苦しめられるようになります。
2009年には腰痛の影響でキャリア最低の出場1試合にとどまります。
この年の年俸が4億円だったこともあり、一部の野球ファンからは批判の声が上がりました。
なお、2008年以降高橋由伸選手が規定打席に達することはありませんでした。
18 初体験づくしの2010年 なりふり構わぬ姿勢の天才
2010年、高橋選手は進退をかけてシーズンを迎えました。
腰の負担を考慮した一塁手挑戦、キャリア初の2番起用など、なりふり構わぬ姿勢で出場機会を手にしました。
どんな形でも出るという高橋選手の強い信念と並々ならぬ覚悟を感じた年でもありました。
シーズントータルでは打率こそ.268にとどまりましたが、332打席で出塁率.364、OPS.804。
チームのリーグ3連覇に貢献しました。
19 史上108人目となる1500本安打を達成
2011年、史上108人目となる1500本安打を達成。
史上8位の速さで1,000本安打を達成した天才にしては遅すぎましたが、苦労を重ねた末の1,500本安打達成は今までとは違った味わいがあったでしょう。
1500本安打を打てるだけでもほんの一握りの選手だけしかできない偉業。
それを達成しても「物足りない」、「遅すぎる」と言われてしまう。
やはり高橋由伸は天才だと改めて思わされました。
20 統一球も天才には関係なし
2011年は多くの選手が統一球に悩まされたシーズンでした。
そんな中で高橋由伸選手は見事に統一球にも対応。
301打席で打率こそ.246でしたが、OPSは.829を記録。
この年リーグ最高のOPSは長野久義の.847。
球界トップレベルの数字を残し、高橋由伸健在を強烈にアピールしました。
数字だけでなく、実際のプレイでも強烈なインパクトを残した打席がありました。
10/12に行われた阪神戦。
一打サヨナラの場面で迎えた打席でツーストライクと追い込まれ、左投手の外の変化球に泳がされながらも右中間スタンドの上段にサヨナラ本塁打を放ちました。
2011/10/12 巨人×阪神 高橋由伸14号サヨナラ3ランホームラン
飛ばない飛ばないと言われる統一球をものともしない放物線。
この年の高橋由伸選手は統一球もおかまなしで左中間にも本塁打を放っていました。
ちなみによく松井秀喜氏と比較された高橋由伸選手ですが、高橋由伸選手曰く松井秀喜氏に優っていたのは逆方向への長打。
二人とよく対戦していた古田敦也氏も、「逆方向への長打は高橋由伸が圧倒的に上」と語っています。
高橋選手は2012年のインタビューで「体の衰えが技術で補えなくなっている」と発言していましたが、決してそんなことはありません。
その技術が球界屈指のものであること数字とプレーで示したシーズンでした。
21 史上37人目となる300本塁打を達成
2012年、史上37人目となる300本塁打を達成。
2017年9月24日時点で、左打者で300本塁打以上放っているのは高橋選手を含めて11名のみ。
このことからも、プロ野球の長い歴史の中で、稀有な左の長距離砲であったことがうかがえます。
22 錆びつかない天才の才能
2013年は肉離れなどの影響で68試合に留まりました。
しかし、 残した成績の質はキャリアハイレベル。
打率.303、10本塁打、OPS.950を記録。
38歳になっても身体が万全ならば一流レベルの選手であることを証明したシーズンでもありました。
23 晩年は代打の切り札
2014、15年シーズンは代打の切り札として活躍。
2014年は球団記録にあと1に迫る17打点を記録。
2015年には史上55人目となる通算3000塁打を達成。
出塁率.386、OPS.815を記録し、40歳になっても衰えぬ才能を見せつけました。
実は高橋選手は現役に対して強いこだわりを持っていなかったそうです。
ただ、2013年の松井秀喜氏の引退を受けて、心境の変化があったと語っています。
松井さんから「選手でいられるうちは頑張れ」と言われたときから、自分の気持ちに素直にやりたいと思う気持ちが強くなった。もちろん自分を取り巻く環境の問題もあると思うけど、許されるなら自分の気持ちがやりたいと思う間は続けたい。
川上 哲治、長嶋 茂雄、王 貞治、原 辰徳、松井 秀喜らの巨人を代表する選手は38歳の年に引退。
2013年の時に38歳を迎えました。
進退を悩んでいた高橋選手に松井氏がかけた言葉がきっかけで、高橋選手は現役の思いを強くしました。
5月5日、東京ドームの広島戦の前に行われた国民栄誉賞の授賞式に出席した松井に、
「とにかく、しぶとく1年でも長くやれ!」
と言われたという。
その強い覚悟と決意が2013~2015年の高橋選手の好成績につながったのです。
松井氏は高橋選手の1歳年上。
同じ右投げ左打ちの二人は良きチームメイトでもあり、ライバル。
打撃理論もプレイスタイルも異なる二人ですが、お互い通じ合うものがあったそうです。
そんなライバルでもあり、憧れの存在でもあった松井氏の言葉だからこそ、高橋選手は現役への思いを強くできました。
24 衝撃の引退 電撃監督就任
2016年以降の現役続行の意向を示していた高橋選手に誰もが予想しなかった展開が待ち受けていました。
原辰徳監督辞任後の巨人の監督になることが決定したのです。
あわせて2015年限りでの現役引退。
2015年も十分戦力であり、2016年も必要戦力であると目されていた選手の衝撃の引退と電撃監督就任。
私は偶然ですが2015年の高橋由伸選手のシーズン最終打席を東京ドームの試合で観戦しました。
「代打、高橋由伸」のコールに対して球場は割れんばかりの大歓声。
あれだけの歓声を引き起こせるスター選手は今の球界には数えるほどしかいません。
その実力も人気も兼ね備えた選手が球団人事の都合で強制的に引退させられるとは。
様々な事情が巨人の球団内部にあったでしょう。
高橋由伸監督就任で人気回復を狙った面もあったかもしれません。
しかし、私は高橋由伸選手を半ば強制引退させたことで、巨人ファンを辞めた人も一定数いたと思います。
あの美しいフォームをもう見れない。
巨人がファンに与えた悲しみは監督就任に対する喜びよりも大きかったです。
入団、引退発表・監督就任会見のいずれの時も、 高橋由伸氏の顔に笑顔はありませんでした。
巨人軍に運命と野球人生を翻弄され続け、それでも巨人のために全力を尽くす高橋由伸監督。
監督就任後の高橋監督は苦しい戦いを強いられています。
原政権を支えた選手たちはベテランの域に差し掛かり、チームは転換期を迎えています。
巨人にとっては折悪く、対照的に広島東洋カープは若い選手を中心に黄金期を迎え、2016、17年のセリーグを連覇。
2017年には球団ワースト記録の13連敗を喫し、高橋監督解任の噂まで飛び交いました。
苦しい状況は続いていますが、何度も逆境をはね返してきた高橋由伸監督ならきっと乗り越えられます。
ファンの一人として、高橋由伸監督を私は応援します。
高橋由伸通算成績と獲得タイトル
【通算成績】※()内は2017/9/24時点のNPB歴代順位
- 出場試合:1819(80)
- 安打:1753(75)
- 打率:.291(30)
- 本塁打:321(38)
- 打点:986(45)
- 出塁率:.366
- OPS:.872
【主な獲得タイトル】
- ベストナイン:2回 (1999年、2007年)
- ゴールデングラブ賞:7回 (1998年 - 2003年、2007年)
- 月間MVP:5回 (1999年4月、2000年8月、2001年8月、2003年6月、2007年6月)
- オールスターゲームMVP:1回 (2003年 第1戦)
- リーグ優勝:8回 (2000年、2002年、2007年、2008年、2009年、2012年、2013年、2014年)
- 日本一:4回(2000年、2002年、2009年、2012年)
youtube企画
巨人高橋由伸が怪我しなければどんな生涯成績を残したか検証【パワプロ2017】
まとめ
天才、天才と称され続けた男には同時に悲運の文字もつきまとう野球人生でした。
美しくも儚い天才。
そんな21世紀を代表するスター選手の入団から引退までを見続けられたのは一人の野球ファンとして幸せでした。
今後どんな野球人生を送られるかはわかりませんが、一生応援し続けます。
それでは、さようなら!
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