どうも、はろーぐっばい(@jubenonz)です。
本日は、歴代最高のショート&スイッチヒッター!松井稼頭央伝説ベスト32をご紹介します!
私が今まで観てきた野球選手の中で最も好きな選手は松井稼頭央選手です。
子供の頃からの憧れの選手であり、野球の魅力を教えてくれた選手でもあります。
強肩と華麗に動くショートの守備、スイッチヒッターで長打も率も残せる打撃、陸上選手ばりの俊足。
まさにミート、パワー、スピード、肩の強さ、守備の上手さ全てを兼ね備えた”5ツールプレイヤー”の名がふさわしい選手。
日本人歴代最強ショートにして、最高のスイッチヒッター。
松井稼頭央選手がいなければ西武ファンになることも、野球を好きになることもありませんでした。
小学生3年生の頃から28歳の今に至るまで、約20年間にわたって応援し続けてきた選手です。
そんな松井稼頭央選手の代名詞である背番号7では足りないので、デビュー時代の背番号「32」にちなんだ32個の伝説をご紹介していきます。
- 1 高校時代は名門PL学園のエース
- 2 プロ入り後に遊撃手とスイッチヒッターに転向
- 3 プロ3年目でレギュラー獲得
- 4 オールスターゲーム第1戦では1試合4盗塁の新記録を樹立しMVPを獲得
- 5 62盗塁で初のパ・リーグ盗塁王
- 6 シーズンMVPを受賞
- 7 初の最多安打タイトル獲得
- 8 4番松井稼頭央
- 9 センチュリーベストナインに選出
- 10 歴代4位の速さで通算1000本安打を達成
- 11 シーズン盗塁成功率100%
- 12 2試合連続サヨナラ本塁打 1シーズン最多の3サヨナラ本塁打
- 13 スイッチヒッターとしては史上初となる5試合連続本塁打
- 14 パ・リーグ新記録となるシーズン82長打を達成
- 15 プロ野球新記録の一番打者でシーズン36本塁打
- 16 スイッチヒッターとしては史上初のトリプルスリー
- 17 8年連続全試合出場&1143試合連続出場
- 18 7年連続ショートでベストナイン
- 19 4度のゴールデングラブ賞
- 20 メジャー移籍
- 21 メジャー史上初となる開幕戦新人の初球初打席本塁打
- 22 ショート失格の烙印 苦戦が続いたメジャー挑戦
- 23 メジャー4人目となる3年連続シーズン初打席本塁打
- 24 初のメジャーでリーグ優勝 セカンド転向で花開く
- 25 ヒューストン・アストロズ移籍
- 26 NPB/MLB通算2000本安打を達成
- 27 日本人スイッチヒッター歴代最多の2018安打
- 28 日本復帰と主将任命
- 29 自身・楽天初の日本一
- 30 自らの意思で外野手転向
- 31 歴代最速記録でNPB通算400二塁打を達成
- 32 NPB史上初のスイッチヒッターで2000本安打&200本塁打達成
- 2017年現在と現役続行
- まとめ
- 関連記事
- youtubeチャンネルのご紹介とお願い
1 高校時代は名門PL学園のエース
松井稼頭央選手は名門PL学園の出身。
2学年上に坪井智哉(元阪神、日本ハム)、1学年上に今岡誠(元阪神、ロッテ)。
1学年下にサブロー(元ロッテ)、2学年下に福留孝介(現阪神)。
先輩・後輩に後のプロ野球で活躍するスター選手がおり、まさに時代はPL学園全盛期。
そんな中にあって、松井稼頭央選手は1年生の春からベンチ入り。
2年春にはエースナンバーを着けて甲子園に出場しています。
ただ、高校時代は肘や腰などの怪我に泣かされていた松井選手。
甲子園では控え投手の児島が好投する姿をベンチで観ていて、とても悔しかったと語っています。
結局最後の夏は大阪府大会で、金城龍彦(元横浜、巨人)擁する近大付高に負けて甲子園出場を逃しました。
30分近く泣き崩れていた松井選手。
それをみた、PL学園の中村順司監督(当時)が「お前は次がある選手だから」と言ってクールダウンするように声をかけたそうです。
2 プロ入り後に遊撃手とスイッチヒッターに転向
ドラフト3位で西武ライオンズに入団した松井稼頭央選手。
西武は松井選手の身体能力を高く評価し、野手として獲得。
PL学園時代は右投げ右打ちの投手だった松井選手。
プロ入り後は右投げ両打ちの遊撃手に転向しました。
登録名も本名の「松井和夫」から「松井稼頭央」に変更。
登録名には「中央で先頭に立ち、活躍する」という意味が込められています。
ポジション、打撃、名前など、何から何まで変化が求められた年になりました。
PL時代は投手以外の練習をほとんどしておらず、打撃も走塁も守備も一から基礎を叩き込まれたそうです。
3 プロ3年目でレギュラー獲得
ルーキーイヤーは1軍出場の機会がなかった松井選手。
2年目の1995年には1軍で21盗塁を記録。
盗塁死はわずか1で、盗塁成功率は驚異の.955。
プロ3年目には1軍のレギュラーに定着し、全試合出場。
持ち味の俊足を活かしてリーグ2位の50盗塁を記録。
盗塁死は9で、盗塁成功率は.847を記録。
打率も.283と及第点の活躍を見せ、飛躍の一年となりました。
その活躍が評価され、背番号は「32」から今や代名詞となった「7」に変更。
西武の歴代背番号「7」は豊田泰光、石毛宏典らが背負ったチームリーダーの番号。
球団からの高い期待と評価が伺える背番号変更となりました。
ちなみに、松井選手が最初に着けていた「32」は松井選手以降、犬伏稔昌、石井義人、浅村栄斗、永江恭平といった選手が背負いました。
これらの選手は飛躍的な成長を遂げており、今や西武の背番号「32」は期待の若手が背負う出世番号になっています。
4 オールスターゲーム第1戦では1試合4盗塁の新記録を樹立しMVPを獲得
引用:https://www.rakuteneagles.jp/special/kazuo2000/photogallery/index.html#story/5/
松井選手の名が全国に轟いたのは1997年のオールスター。
当時全盛期だった強肩捕手古田敦也から1試合4盗塁の新記録を樹立しMVPを獲得。
史上初の1試合に2三盗の記録も作りました。
古田捕手は1991年のオールスターで1試合3盗塁捕殺でMVPに輝いたことがありました。
1993年には日本記録の盗塁阻止率.633を記録し、1997年も盗塁阻止率.459(リーグ1位)を記録するほどの強肩。
その古田捕手から1試合に4つも盗塁を奪ったことに、野球ファンは度肝を抜かれたのです。
5 62盗塁で初のパ・リーグ盗塁王
引用:https://www.rakuteneagles.jp/special/kazuo2000/photogallery/index.html#story/5/
オールスターの勢いそのままに、1997年に初のタイトルである盗塁王を62盗塁で獲得。
課題の打撃も打率.309(リーグ4位)、出塁率.362と向上。
チームのリーグ優勝に貢献したことも評価され、MVP投票ではエース西口文也、正捕手伊東勤に次ぐ総合3位のポイントを集めました。
6 シーズンMVPを受賞
留まることを知らない松井選手。
1998年には43盗塁で2年連続となる盗塁王。
リーグ最多得点、OPS.812、打率.311(リーグ5位)、安打数179(リーグ2位)の活躍でチームを牽引。
連続試合出塁39試合と猛打賞21回(リーグ1位)を記録し、安定感と爆発力の両方を兼ね備えた選手になりました。
チームも二年連続リーグ優勝となり、自身初のシーズンMVPに選出されました。
余談ですが、当時小学3年生だった私が松井稼頭央選手のファンになったのはこの頃です。
7 初の最多安打タイトル獲得
1999年には初の打撃タイトルとなる最多安打を獲得。
当時はオリックスブルーウェーブにあの天才イチロー選手がいました。
イチロー選手は1994~2000年の間に7年連続首位打者を獲得。
初の首位打者を獲得した94年以降5年連続で最多安打のタイトルも獲得していました。
イチロー選手がクリーンナップを打つことが多くなっていたとはいえ、連続最多安打記録をストップさせたことで松井選手は高い評価を受けました。
自身初の二桁本塁打となる15本塁打、OPS.871など、長打力にも磨きがかかっていた時期でした。
3年連続となる盗塁王も獲得しており、攻撃力が飛躍的に向上した年でもありました。
8 4番松井稼頭央
2000年、当時の西武ライオンズは今では考えられないくらい貧打にあえいでいました。
近鉄のエルビラにノーヒットノーランを達成されるなど、投手陣の頑張りを見殺しにすることもしばしば。
高木大成、鈴木健、垣内哲也らの主力が不振。
逆に大友進、小関竜弥らの1、2番タイプが数多くいたため、松井稼頭央選手がクリーンアップを打つ機会が増えていました。
松井選手に期待される役割が俊足巧打でチャンスメイクから長打でランナーを返すに変わっていったのです。
その結果、4番松井稼頭央というルーキー時代には考えられない打順で起用されることもありました。
この年、松井選手は23本塁打(リーグ10位)、OPS.932、74長打(リーグ1位)を記録。
4番に起用されてもふさわしい成績を残したのです。
ただ、その影響からか盗塁数は前年の32→26に減少。
3年連続で獲得していた盗塁王のタイトルを逃すことになりました。
また、2000年以降盗塁王のタイトルを獲得することはありませんでした。
9 センチュリーベストナインに選出
2000年、日本プロ野球機構・読売新聞社・日本テレビ・ニッポン放送主催で、日本プロ野球の20世紀全体を通したベストナインを決める企画が行われました。
錚々たるメンバーが選出されるなか、遊撃手部門に松井稼頭央選手が選出。
【センチュリーベストナイン】
- 投手: 江夏豊
- 捕手:古田敦也
- 一塁手:王貞治
- 二塁手:落合博満
- 三塁手:長嶋茂雄
- 遊撃手:松井稼頭央
- 外野手:イチロー
- 外野手:松井秀喜
- 外野手:張本勲
当時は投票システムの公平性などの観点から、賛否両論ありましたが、今見てもかなり妥当なメンバーが選出。
2017年現在は巨人坂本勇人遊撃手が松井稼頭央選手に引けを取らないパフォーマンスと通算成績を見せています。
良い意味で歴代最高の遊撃手を争うまでに成長して欲しいです。
現時点ではインパクトも含めて松井稼頭央選手が上だと個人的には思います。
10 歴代4位の速さで通算1000本安打を達成
2001年に通算1000本安打を達成。
これはイチロー、ブーマー・ウェルズ、与那嶺要に次ぐ歴代4位のスピード記録となりました。
速いのは足だけでないことを自らのバットで証明してみせたのです。
11 シーズン盗塁成功率100%
数は減少傾向にあった盗塁ですが、韋駄天ぶりは健在。
2001年に、2リーグ制以降初となる、20盗塁以上でのシーズン盗塁成功率100%を達成(26盗塁)。
プロ2年目に記録した盗塁成功率.955(22-21)を上回る記録となったのです。
この頃のインタビューでは盗塁成功率への意識も口にされています。
この年4番にアレックス・カブレラが加入したこと率へのこだわりを更に強くさせたのでしょう。
12 2試合連続サヨナラ本塁打 1シーズン最多の3サヨナラ本塁打
引用:https://www.rakuteneagles.jp/special/kazuo2000/photogallery/index.html#story/5/
2002年の5月にパ・リーグ史上2人目となる2試合連続サヨナラ本塁打を記録。
この年就任した伊原春樹新監督は就任直後から「松井稼頭央を1番に戻す」と明言。
ランナーを返す役割ではなく、チームに勢いをもたらす役割に戻すことで、松井選手本来持ち味を発揮させたのです。
3年連続V逸していたチームを勢いづける松井選手の活躍もあって、チームは快進撃を続けていきます。
松井選手自身も最終的にはサヨナラ本塁打を3本記録し、パリーグタイ記録に並びました。
実は2001年まではサヨナラ本塁打を打ったことがなかった松井選手。
キャリア初のサヨナラ本塁打を放った年に、一気に3本も打つあたりにスター性を感じさせられます。
13 スイッチヒッターとしては史上初となる5試合連続本塁打
磨きをかけた長打力が更に爆発。
6月にはスイッチヒッター史上初の5試合連続本塁打を記録。
このあたりから「今年こそはトリプルスリーいけるかもしれない」という期待がファンの間では高まっていきました。
14 パ・リーグ新記録となるシーズン82長打を達成
2002年の10月には、1950年に小鶴誠が記録したシーズン85長打を上回る88長打の新記録を樹立。
15 プロ野球新記録の一番打者でシーズン36本塁打
2002年は最終的にシーズン36本塁打を記録。
これは1985年の真弓昭信の34本、2007年の高橋由伸の35本を上回る今でも破られていない記録です。
16 スイッチヒッターとしては史上初のトリプルスリー
2002年は最終的に打率.332、36本塁打、33盗塁で史上8人目、スイッチヒッターとしては史上初のトリプルスリーを達成。
119得点(リーグ1位)、87打点、出塁率.389、OPS1.006(リーグ3位)も記録。
3年ぶり2度目の最多安打のタイトルも獲得。
従来の日本球界の常識を打ち破る超攻撃的な1番打者像を確立したのです。
当時の子供の間では、松井稼頭央にがいつパワプロでオールAを獲得するのかに注目が集まってもいました。
17 8年連続全試合出場&1143試合連続出場
2003年にも全試合出場したことで、松井選手は8年連続全試合出場&1143試合連続出場となりました。
この記録は2017年9月現在もパリーグ記録。
ちなみに、パリーグ歴代2位は同じ西武の秋山幸二選手の833試合です。
約3年ぶりの試合数の開きがあることからもこの記録の偉大さがうかがえます。
高校時代は怪我に泣かされてきた選手が、厳しい練習を積んで屈強な肉体を作り上げたのです。
西武時代晩年は腰痛などの影響で指名打者での出場もありました。
私は小中学生の頃に球場に行けるのは年に1回程度でした。
そんな私にとっては、常に必ず試合に出てくれる松井選手の存在は本当にありがたかったです。
連続試合出場は時に批判を受けることがあります。
私もチームの勝敗を度外視してまで続ける記録ではないと思います。
ただ、必ず試合に出てくれる選手がいることは地方に住む野球ファンにとって非常にありがたい存在です。
それがスーパースターであれば尚更。
自身、チームのためだけではなく、ファンのためにも試合に出続けた松井選手はまさに正真正銘のスター選手でした。
18 7年連続ショートでベストナイン
松井選手は1997~2003年の間に7年連続でショート部門のベストナインに選出されています。
これは歴代最多の連続受賞記録。
7回の受賞はパリーグ歴代最多(全体1位は吉田義男の9回)。
遊撃手は負担が大きいポジションですので、晩年は他のポジションにコンバートされるケースが多いです。
藤田平、鳥谷敬は6回、池山隆寛、石毛宏典は5回遊撃手部門でベストナインを獲得していますが、後に別のポジションにコンバートされています。
それだけ負担の大きいポジションにあって、松井選手が連続出場しながら7年連続でベストナインを獲得し続けたことは称賛に値する記録です。
19 4度のゴールデングラブ賞
松井選手の魅力の一つがショートの守備。
通算で4回 (1997年、1998年、2002年、2003年)ショート部門でゴールデングラブ賞を獲得しています。
肩の強さと曲芸のようなスローイングは今までの日本人にはないものでした。
オールスターのスピードガンコンテストで球速150km/hを記録するなど、 その肩の強さはまさに規格外。
デビュー当時の西武のセカンド・辻発彦選手が肩の衰えがあったため、右中間方向の中継プレイも松井選手が担うほど。
左の俊足打者が三遊間に放った打球も一塁でアウトにするなど、見ていてワクワクさせる守備でした。
同時期に歴代最高峰の守備を誇る小坂誠(元ロッテ、巨人、楽天)がいたため、二人はよく比較されました。
守備の上手さは小坂選手に軍配が上がっていましたが、華やかさや誰にも真似できないスローイングは松井選手の方が上。
ちなみに、松井選手自身は小坂選手の守備を参考・お手本にして鍛えたそうです。
甲乙つけがたい二人の遊撃手を見られたことは私の財産になっています。
20 メジャー移籍
2003年のオフ、松井稼頭央選手はフリーエージェント権を行使して、メジャー挑戦を表明。
松井選手自身の日米野球での活躍、2001年のイチローと2003年の松井秀喜らの野手の成功もあって、松井稼頭央選手がメジャーに行くのは既定路線でした。
日米野球ではイチロー選手から松井稼頭央選手に「いつ来るの」と声をかけたほど、誰もが松井選手のメジャー挑戦を確信していました。
かくいう私も松井稼頭央選手はメジャーに挑戦すると想定していた一人。
ただ、内心はかなり複雑なものがありました。
それは松井選手のいない西武を想像することが出来なかったからです。
当日中学生だった私が学校から帰ってきた時に、夕方のニュースで松井稼頭央選手メジャー挑戦が報道された時は寂しい気持ちになったことを今でも覚えています。
メジャーでイチロー、松井秀喜選手のように活躍する姿を観たい一方、西武でもっと活躍して欲しい思い。
松井稼頭央選手が晴れやかな嬉々とした表情でメジャー挑戦を語るのとは対照的に、私の気持ちは複雑な心境でどんよりとしていました。
松井稼頭央選手の西武退団後、私の西武ファン熱は数年間冷めてしまいました。
2008年の若獅子たちの台頭まで。
私が約20年間埼玉西武ライオンズファンの理由 好きなものは好きだ
21 メジャー史上初となる開幕戦新人の初球初打席本塁打
ニューヨーク・メッツに移籍した松井選手。
代名詞の背番号7は期待の若手ホセ・レイエス選手が背負っていたため、「25」に決定(足して7になるので)。
注目されたメジャー開幕戦、メジャー史上初となる開幕戦新人の初球初打席本塁打という衝撃的なデビュー戦となりました。
この時多くの人が松井稼頭央選手の活躍を信じて疑いませんでした。
22 ショート失格の烙印 苦戦が続いたメジャー挑戦
好スタートを切った松井選手でしたが、そう全ては上手くいきませんでした。
慣れない天然芝の守りに苦戦し、ショート守備でエラー連発。
持病の腰痛の影響もあり、攻守に精彩を欠きました。
西武時代から続いていた連続試合出場が1213試合でストップするなど、思うような活躍が出来ない日々が続きました。
最終的にシーズン全162試合中114試合に出場。
打率.272、7本塁打、OPS.727、14盗塁と平凡な成績に終わり、厳しいニューヨークメディアからは度重なるバッシングがありました。
松井選手を取り巻く状況は悪化の一途をたどり、メッツファンからは強烈なブーイングが巻き起こるほど。
中には松井「稼頭央」選手の名前に対して、「稼ぐことしか頭にない」という批判もありました。
そんな的外れな批判に対して、「批判するならピアザの一塁守備だろ」と当時の私は怒りと悲しみの混じった感情をぶつけていました。
当時はイチロー選手の大成功もあったため、松井選手への期待値はかなり高いものになっていたことも、ファンの失望を大きくさせた原因です。
最終的には翌年以降の二塁手コンバートが決定し、松井選手は1年でショート失格の烙印を押されました。
23 メジャー4人目となる3年連続シーズン初打席本塁打
メジャー挑戦3年目の2006年、メジャー4人目となる3年連続シーズン初打席本塁打を記録。
ただ、メッツ時代の明るい話題は他に乏しく、出場試合数も114→87→38と減少。
シーズン途中に交換トレードでコロラド・ロッキーズへ移籍することが決定しました。
24 初のメジャーでリーグ優勝 セカンド転向で花開く
新天地のコロラド・ロッキーズで、ようやく松井選手らしいプレイを見せるようになりました。
2006年の移籍後32試合で、打率.345、2本塁打、19打点、8盗塁、OPS.896。
2007年はセカンドのレギュラーとして固定され、終盤は「1番・二塁」に定着。
リーグ9位となる32盗塁を記録し、成功率は.889(盗塁死4)。
打率.288、出塁率.342と打撃でも及第点の働きを見せました。
チームも好調で、球団創設以来初のリーグ優勝。
松井選手もメジャー初優勝となり、ワールドシリーズに進出しました。
ワールドシリーズでは西武時代のチームメイトであるレッドソックスの松坂大輔投手と対戦。
この対決に興奮した西武ファンは私だけではないはずです。
今の松坂大輔選手復活に期待しない 2017年の活躍に期待を寄せて
25 ヒューストン・アストロズ移籍
ロッキーズで輝きを取り戻した松井選手を評価したのが、ヒューストン・アストロズ。
2008~2010年までの3年総額1650万ドル(約18億3000万円)の大型契約で松井選手を迎え入れました。
2008年はその期待に応え、日本人内野手歴代2位の打率.293を記録。
出塁率.354、OPS.781、盗塁20と一定レベルの攻撃力を見せました。
26 NPB/MLB通算2000本安打を達成
2009年、イチロー、松井秀喜に次ぐ史上3人目のNPB/MLB通算2000本安打を達成。
西武時代の監督・東尾修氏からブレザーを名球会のブレザーが手渡されました。
27 日本人スイッチヒッター歴代最多の2018安打
2009年は安打数を積み重ね、柴田勲が持つ日本人両打ち打者の最多安打2018本を超えを果たしました。
日米通算の記録なため参考記録ですが、また一つ史上最強スイッチヒッターとしての勲章を得ました。
28 日本復帰と主将任命
2010年オフ、松井選手は日本復帰を決断。
東北楽天ゴールデンイーグルスと総額3億円の2年契約を交わしました。
代名詞の背番号7は山崎武司選手が着けていたため、「初心に返る」という本人の希望で西武入団時と同じ「32」。
復帰後2年目の2012年には、リーダーシップと人望を評価され、外様ながら2代目主将に任命されました。
あわせて、山崎武司選手の退団で空いた背番号「7」を着けることになりました。
29 自身・楽天初の日本一
2013年は第3回WBC日本代表選手に選出。
シーズンでは主に7番・遊撃手でレギュラー。
本塁打、打点でマギーとアンドリュー・ジョーンズに次ぐチーム3位の成績を記録しました。
チームは球団創設後初となるリーグ優勝&日本一に輝きました。
西武時代は3度、メジャーでは1度リーグ優勝を経験していましたが、頂点に立ったのは初。
祝勝会で見せた満面の笑みとムキムキの肉体を今でも忘れません。
30 自らの意思で外野手転向
2015年は、2014年途中から挑戦していた外野手に自らの意思で本格転向。
本人は不慣れなポジションの守備に満足はしていなかったようですが、周囲は外野守備を絶賛。
数字の上でもUZRでは右翼手としてリーグ1位のUZR9.7を記録。
実は松井選手は西武時代に遊撃手以外での出場はなし。
ただ、メジャーでは二塁手、WBCでは三塁手、そして楽天に加入してからは外野手。
しかも外野の3ポジションをハイレベルにこなしました。
通常ベテラン選手が外野手にコンバートされる場合は守備力がさほど求められない左翼手が主。
松井選手の場合は中堅手や右翼手を任されることもありました。
広い球場が多いパ・リーグでは外野手に高い守備力を求められます。
改めてその野球センスと身体能力の高さを見せつけてくれました。
31 歴代最速記録でNPB通算400二塁打を達成
2015年は史上12人目のNPB通算400二塁打を達成。
高校の先輩である立浪和義の持つ歴代最速記録(1868試合)を上回る1755試合目での達成となりました。
32 NPB史上初のスイッチヒッターで2000本安打&200本塁打達成
2017年、松井選手はNPB通算200本塁打を達成。
NPB史上初のスイッチヒッターで2000本安打&200本塁打達成となりました。
2017年現在と現役続行
進退をかけた2017年。
「いつ辞めても後悔すると思う。」と口にする松井選手は現役に対する強い意思を見せています。
2016年のシーズン終了後にはベテランとしては異例の秋季キャンプにも参加。
高校時代の一つ下の後輩サブロー選手も引退し、思いを強くしたそうです。
2017年シーズンはスタメンの機会は減りましたが、代走や外野の守備固め役で1軍帯同。
6月には起死回生の同点打と3年ぶりのショート守備を披露。
「松井稼頭央が打ってくれたということとショートを守ってくれたということは、チームにとって大きいことだなと思います」と梨田監督。正遊撃手の茂木栄五郎が右ヒジ痛で離脱するなか、「いつでも行ける準備だけはしておいてくれ」とゴールデングラブ4度受賞の名手をバックアップに待機させていた。
「この間からシートノックも入ってもらったりして。『知りませんよ。責任持ちませんよ』なんて言いながら、ちょっと楽しんでたところもあったのかな。茂木がいないなかで、ああいう風にやってくれるというのは助かりますね」
チームの危機を救う頼れるベテランとして存在感を発揮しています。
2017/9/25時点で2018年以降の現役続行は確定していません。
ただ、本人は現役続行の意思を示しており、球団と協議する方向とのこと。
※追記 2017/10/12
2017年限りで楽天を退団し、2018年シーズンの新天地を探す意向とのこと。
楽天・松井稼頭央外野手(41)が来季構想外であることが11日、分かった。すでに、来季は現役を続ける考えを固めており、球団創設以来初となる2013年のパ・リーグ優勝、日本シリーズ制覇に貢献した功労者は、7年間在籍した楽天を退団する方向。新たな移籍先をさがすとみられる。
引用:楽天・稼頭央、退団へ…球団側が指導者ポスト提示も固辞 新天地で現役希望 (サンケイスポーツ) - Yahoo!ニュース
一年でも長く現役を続行してもらい、ファンを少しでも多く魅了して欲しいです。
まとめ
大人になってから子供時代のヒーローの負の面を知って残念な気持ちになることはあります。
大人の世界や黒い噂など、 知らなくて良かったことを耳にすることもあります。
しかし、松井稼頭央選手にいたってはそういった話を聞くことがありません。
むしろ先輩・後輩やチームメイトやライバル球団の選手からの人柄を絶賛する声をよく目にします。
インタビューなどを見ていても、その誠実さを感じ取ることができます。
野球選手としての5ツールだけでなく、ルックスやキャプテンシーや人格など、7ツールも8ツールもある選手です。
大人になって改めて松井稼頭央選手のファンになって良かったと思えました。
今後も大の松井稼頭央ファンとして応援し続けます。
それでは、さようなら!
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