死ぬまで生きる問題

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松井秀喜の凄さをまとめた伝説エピソード55【2019年版】

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平成日本野球界最高のスーパースター松井秀喜氏。

 

世界に誇る安打製造機イチロー選手と並ぶ日本球界の至宝。

昭和を代表するスーパースターが王貞治、長嶋茂雄のONコンビなら、平成を代表するスーパースターはイチロー、松井秀喜。

 イチロー選手が「天才」なら松井秀喜氏は「怪物」。

日本人野手の可能性と難しさを良くも悪くもこの二人が教えてくれました。

 

平成元年生まれの私が観てきた日本野球界は間違いなくこの2人を中心に動いてきました。

 

今日はその松井秀喜氏の選手としての偉業、人間性の高さを代名詞の背番号55に合わせて55個に分けて振り返っていきます。

 

怪童と言われた幼少期から国民栄誉賞を受賞するまで。

後世まで語り継ぎたい珠玉の松井秀喜伝説エピソード55です。

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1 怪童伝説

生まれたときの体重は3,960グラム。

3歳で入園した保育園では保育園史上最大の園児と言われるほど大きな子供だった松井氏。

  

兄の影響で始めた野球では元々右打ちだったものの、あまりにも打球を飛ばすために、幼少期に左打ちに転向。

歴史にもしがあるなら松井氏が右打ちだったらどれだけの打者になっていたかを野球ファンなら想像せずにはいられません。

 

意外にも野球を得意だったのは柔道。

小学生の時に能美郡大会で優勝、石川県大会では3位に入り。

この活躍が認められ国体強化選手に選出。

進学した根上中学校に柔道部がなかったために野球に専念したとのこと。

 

もし根上中学校に柔道部があったら日本野球界にとってこれほどの損失はなかったです。

ありがとう根上中学校!

 

ちなみに中学校入学時で身長は170cm、体重は95kg。

中学1年の時には能美郡相撲大会に出場し、個人戦で優勝。

野球では3年生になると飛距離は130mをかっ飛ばしていたそうです。

 

実は中学2年生の時には1学年上のイチロー選手と同じ軟式野球の大きな大会に出場しています。

両者が在籍するチーム同士の対戦はなかったそうですが、お互い凄い選手がいるという意識はあったそうです。

2 星稜高等学校では1年生から4番打者

星稜高校監督の山下からの熱烈な勧誘や、中学野球部監督やコーチの高桑らに薦めで星稜に進学。

松井氏は恩師山下監督から毎年目標を課せられたそうです。

 

松井秀喜は星稜高での3年間、監督の山下智茂から毎年、目標を課せられた。入学してすぐに「石川県一のバッターになれ」。2年生になると「北信越一のバッターになれ」。そして、3年生では「全国一のバッターになれ」-。その“ノルマ”を次々と達成していった。

引用:【球界高校人脈】星稜高OBは多士済々!松井秀、小松辰、山本省ら - スポーツ - ZAKZAK

 

その約束通り1年生で4番打者を任されました。

当時後にプロに進む村松有人選手が3年生として在学していたのですが、それを押しのけての4番抜擢。

 

また、プレーだけでなく、人柄も高く評価されていた松井氏。

最高学年となった新チームでは山下監督から直々にキャプテンに指名されます。

星稜高校は毎年キャプテンを部員投票で選出していましたが、山下監督が松井氏の統率力や影響力を高く評価していたため、特例任命。

3 イチローとの出会いは高校時代

中学時代にすれ違いとなったイチロー&松井は高校時代に練習試合で対戦。

練習試合ではイチロー選手が2試合連続で3安打(松井氏の証言)を活躍を見せ、二人は塁上で話をしたとのこと。

 

当時からイチロー選手は有名人で星稜高校のコーチはイチロー選手のことをプロに行く選手と称していたそうです。

二人は寮のお風呂や部屋でプロ野球選手として将来について語り合ったこともあったそうです。 

 

後に日米の野球界で大活躍をする二人の歴史的な最初の出会いです。

ちなみに松井氏はこの時期にプロにいけると確信を持てたと語っています。

4 甲子園ラッキーゾーン撤廃後初本塁打

松井氏が高校3年春のセンバツから阪神甲子園球場のラッキーゾーンが撤去。

本塁打数が激減する中、松井氏には関係なし。

 

開幕試合である初戦の宮古高校戦で2打席連続本塁打、1試合7打点、2試合連続本塁打と、当時の大会記録をマーク。

甲子園ラッキーゾーン撤廃後初本塁打となりました。


2015/07/17 松井秀喜 高校野球 ベストゲーム 星稜 vs. 宮古

 

続く堀越高校のエース・山本幸正から難しいカーブを本塁打。

この本塁打を長嶋茂雄氏が見ていたのが後の巨人入りのきっかけとなったとも言われています。

5 伝説の5打席連続敬遠

山下監督との教え通り、世代最強打者になっていた松井氏。

そのあまりの突出ぶりが衝撃的な社会現象を巻き起こしました。

 

3年夏の甲子園2回戦の明徳義塾高校戦で伝説の5打席連続敬遠。

一度もバットを振ることなく大会から姿を消しました。

 

ランナーの有無、得点差、アウトカウントなど一切関係なしの敬遠には批判が殺到。

 

星稜高等のアルプス席からメガホンが投げ入れられ、高野連が急遽記者会見を開くなど大きな波紋を呼びました。

 

逆に言えば、それだけ松井氏の実力が高校生レベルではなかったということです。

また、敬遠されても一切表情を崩さず、試合後のインタビューでも感情を現れにしなかった精神的な強さも高校離れしていました。

 

後に松井氏はあの敬遠が松井秀喜を大きくしたと語っています。

同時にあれだけ敬遠されたのにプロでは対したことがない選手と言われないように頑張ったとも。

「勝負に負けたのは悔しかったですが、3年間で一番、思い出に残る試合でした。あの試合が、思い出に残る試合でした。あの試合が、その後の野球人生のエネルギーになったのは間違いありません。高校時代、あれ以上の出来事はなかった。お互いに精一杯やった結果。5連続敬遠に感謝したくらいです」

引用:甲子園が割れた日―松井秀喜5連続敬遠の真実

6 父の影響 松井秀喜氏を人格者に育てた存在

敬遠騒動やキャプテン任命。

プロ入り後の人格者としての数々のエピソード。

 

松井秀喜氏をここまでの人格者に育てあげたのは父・昌雄さん。

松井秀喜氏を記念した博物館・松井秀喜ベースボールミュージアムの館長としても知られます。

 

宗教法人「瑠璃教会」の司教である父・昌雄さん。

「子供も大人と同じように一人前に扱う」という瑠璃教会の方針から、幼少期から「ひでさん」と呼んで育てました。

 

中学生の時に何気なく友人の悪口を言った松井氏を叱責。

二度と悪口を言わないと約束。

それ以降松井氏は人前で悪口を言ったことはありません。

 

「野球選手になろうと決めてからは一度もありません」

引用:「逆風に立つ 松井秀喜の美しい生き方」

 

また、プロ2年目に大活躍して実家に帰省した際、父・昌雄さんには松井氏が変わってしまったように映ったそうです。

 

実家に集まったファンやマスコミに大物気取りで取った傲慢な態度に違和感を感じたのです。

そんな松井氏に父・昌雄さんは説教。

 

「主観的に自分を見てはいけません。客観的に立場を見なさい。周囲の人、たとえばマスコミやファンは野球選手として、バットマンとしての一面を見て、美化しているにすぎません。人間性とか、ほかの面で評価しているのではないのです。秀喜は自分では気付かないだろうが、あの態度は少し変だ。お父さんはまるで凱旋将軍のように感じられました。」

引用:「秀さんへ。」

 

中学2年生、二十歳。

人格形成のターニングポイントになるところで父・昌雄さんは父として、一人の人間として、また良き理解者として松井氏を諭しています。

そんな父・昌雄さんがいたからこそ松井氏はこれだけ偉大な人物になれたのです。

もちろん、そこには母や兄、監督・コーチ、友人・知人ら多くの存在もあったでしょう。

 

ただ、それらの環境に恵まれるのは松井氏自身も優れた人物であったことが大きいです。

7 4球団から1巡目指名 恩師長嶋茂雄氏との出会い

高校通算打率は.450、本塁打は60本。

超高校級としてドラフトの目玉として騒がれた松井氏。

1992年のプロ野球ドラフト会議では4球団から1巡目指名を受けた。

 

意中の阪神タイガースに加え、読売ジャイアンツ、中日ドラゴンズ、福岡ダイエーホークスらの抽選の末、巨人が交渉権を獲得。

13シーズンぶりに巨人監督に復帰したばかりの長嶋茂雄監督(当時)が引き当てたことでも話題になりました。

 

実は当初巨人フロントは松井ではなく伊藤智仁を指名する予定でした。

ただ、長嶋氏が松井氏の獲得を熱望したため松井指名に切り替え見事に獲得したのです。

その後「4番1000日計画」という名の二人三脚で日本の4番にまで成長した松井氏。

 

昭和のプロ野球を支えたスーパースターが平成のプロ野球を支えるスーパースターを育てるというドラマティックな物語がスタートした瞬間でもありました。 

8 セ・リーグ高卒ルーキー新記録となる11本塁打

 オープン戦で苦戦し、2軍スタートとなった松井氏。

その悔しさをバネに二軍で活躍し、5月に1軍昇格。

ヤクルト戦で高津臣吾投手から内角の直球をライトスタンド中段に運びプロ入り初本塁打。

 

当時の野村克也監督が高津-古田のバッテリーにあえて松井の得意球を投じて実力を試したのは有名な話。

後に4人共名球会する野村、高津、古田、松井の共演によって生まれた伝説の始まりでした。

 

ちなみに高津投手は打った瞬間ライト前ヒットだと思ったそうです。

 

高津 運悪く僕に(役割が)回ってきました。古田さんのサインは、内角への速球。投げた瞬間は「ライト前ぐらいかな」と思いましたが、打球は弾丸ライナーで右翼席中段に入りました。まさか本塁打になるとは…。しかも当たりが激しかったので、すごくビックリしたのを覚えています。

引用:高津、松井1号は「ライト前…が弾丸」 - MLBニュース : nikkansports.com

 

ルーキーイヤーは最終的にはセ・リーグ高卒ルーキー新記録となる11本塁打を記録しました。

9 オールスターゲームでセ・リーグ史上最年少4番

2年目の1994年は開幕戦で2本塁打を記録し、4月には自身初の月間MVPを受賞。

オールスターゲームではセ・リーグ史上最年少で4番を任されました。

 

高卒2年目の選手が4番を打つとは末恐ろし過ぎます。

10 伝説の「10.8決戦」で本塁打&リーグ優勝

中日ドラゴンズとのリーグ優勝を賭けたシーズン最終戦「10.8決戦」。

長嶋茂雄監督が「国民的行事」と称して盛り上がりました。

この試合の視聴率は48.8%を記録。

これはプロ野球中継における最高視聴率として今もなお破られていない記録です。

 

その試合で松井選手はなんと初回に送りバント。

日米通算20年間で3犠打しかしていない松井選手の貴重なバントが見られた試合でもありました。

 

その後の打席で本塁打を放ちチームのリーグ制覇に貢献。

持っている男は注目される試合で活躍するものです。

 

その後の日本シリーズでは西武ライオンズを破り自身初の日本一。

2年目で20本塁打を記録し、着実に成長していきました。

 

ちなみにこれが前述した松井氏が少しだけおごるきっかけになった時期です。

二十歳でこんな活躍をすれば少し態度が大きくなっても仕方がないですよね。

むしろ少しで収まった松井氏がすご過ぎます。

11 初のベストナイン受賞と内角攻め対策

1995年は22本塁打を放ち、初のベストナインを受賞。 

ただ、執拗な内角攻めに苦戦したシーズンでもありました。

 

この年のオフに徹底した内角対策を練習。

松井氏自身が野球人生のターニングポイントと語った練習でもありました。

最初の転機となった95年のオフシーズン。つまり翌96年のシーズン以降の僕は、それ以前の僕とは違ったものになったと思っています。
 それまでの僕は、内角に弱点があり、ここを突かれて打ちとられることが多かった。膝元もそうですが、身体に近いコースを徹底的に攻められて、それでやられることが多かったのです。

肘が畳めないとか、インサイドアウトのスイングとか、そんなことだけではない。当時の僕は、バットの軌道がワンパターンで、あるコースに来るボールは打てるが、そこから外れるとなかなか打てなかった。つまり、“打てる範囲”が狭かった。これは、腕がどうというより、身体全体にかかわることでした。

引用:松井秀喜 『不動心』|新潮社

 

徹底してバットを振り込んだことで徐々に自信がついた松井氏。

この成績が翌96年の成績爆発につながります。

12 初のセ・リーグMVPを受賞

1996年は自身初の開幕4番スタート。

5月から3番に変更されましたが、好調を維持。

7月、8月と2か月連続で月間MVPを獲得。

 

最終的に130試合に出場し、打率3割1分4厘、38本塁打、99打点の成績を記録。

大逆転優勝に大きく貢献したことが評価され、初のセ・リーグMVPを受賞。

 

この活躍から契約更改では倍増の1億6000万円で一発サインした。高卒選手ではイチローと並ぶ史上最短(当時)の入団4年目で1億円プレーヤーの仲間入りを果たしました。

13 22歳での38本塁打は王貞治に並ぶ年齢別最多本塁打記録

ちなみに1996年に記録したシーズン38本塁打は22歳の最多タイ記録本塁打。

世界の本塁打王・王貞治氏に並ぶ記録となりました。 

14 自身初のタイトルとなる本塁打王、打点王、最高出塁率のタイトル獲得

1998年は左膝を痛め開幕から絶不調。

32打席無安打というプロ生活最大のスランプにも悩まされ、4月は打率.190、2本塁打。

 

膝の痛みが和らいだ5月に月間MVPを獲得する大活躍。

 

最終的には34本塁打、100打点で自身初のタイトルとなる本塁打王、打点王、最高出塁率のタイトルを獲得。

巨人で本塁打王と打点王の両方獲得は、1977年の王貞治以来21年ぶりの快挙。

 

1996年は山崎武司、1997年はドゥエイン・ホージーとの本塁打王争いに1本差で敗れた。

史上初の2年連続1本差でタイトルを逃していた松井氏にとっては待望の初タイトルとなった。

 

日本時代にルイス・ロペス、大豊泰昭、ロベルト・ペタジーニら外国人選手とタイトルを繰り広げた松井氏。

 

外国人選手がいなければもっとタイトルを獲得できたという人もいますが、私は違うと思います。

強力なライバルがいたからこそ、お互いを高めあえて松井氏は成長していったからです。

 

若い時期にライバルと競争できた環境があったことは松井氏の成長の手助けになったのです。

 

この年はチームメイトに1歳下の天才・高橋由伸も加わり、更に刺激が加わった年でもありました。

15 シーズン40本塁打達成

1999年は自己最高の42本塁打を記録。

日本人のシーズン40本塁打は1989年の落合博満以来10年ぶり、巨人では1977年の王貞治以来22年ぶりの快挙

16 初の4番でフルイニング出場

2000年は開幕から4番に座り、以後日本シリーズ、日米野球なども含めて、他の打者に4番を譲りませんでした。

 

7月12日の広島戦で通算1000本安打を達成。

最終的に135試合全イニングで4番に座り、いずれも自己最高の打率3割1分6厘、42本塁打、108打点をマーク。

シーズン全試合4番出場は巨人では1950年の川上哲治以来50年ぶりの記録。

ONは3番王、4番長嶋のイメージが強いですが、調子によって打順を入れ替えていました。

そのためシーズンを通して4番を背負い続けた打者になると打撃の神様・川上哲治氏までさかのぼるのです。

 

この年長嶋茂雄監督率いる巨人と王貞治監督率いるダイエーの対決となった。

この対決は「ONシリーズ」として注目を集めました。

松井氏は打率.381(21打数8安打)、3本塁打、8打点。

第1戦で若田部から先制2ラン、日本一を決めた第6戦で天敵・渡辺正から2ランを放つ大活躍。

 

本塁打王、打点王、最高出塁率、シーズンMVP、日本シリーズMVP、ゴールデングラブ賞を受賞し、巨人の日本一の最大の立役者となりました。

 

なお、この年の日本シリーズMVP受賞によって川上哲治、大下弘、福本豊に次ぐ史上4人目の「レギュラーシーズン、オールスター戦、日本シリーズにおけるMVP獲得者」となりました。 

17 石川県県民栄誉賞を受賞

2000年の活躍を評価され、11月21日には石川県県民栄誉賞を受賞。

石川県初の県民栄誉賞受賞となりました。

 

松井選手は、今シーズン全試合4番打者という重責を果たし、セ・リーグのホームラン王、打点王も獲得され、さらにセ・リーグの最優秀選手にも選ばれ、3冠王とまではいかなかったわけでありますが、ほぼそれに近い賞を獲得されたということで、我々県民に大きな夢と感動を与えて頂きました。そして、本県の観光PRにも大変ご協力を頂いており、本県のイメージアップにも非常に貢献して頂いたのではないかと思っております。

 

そこで本県初ということになりますが、松井選手に県民栄誉賞を贈呈するということにしたわけであります。

引用:石川県/記者会見の要旨 - 平成12年11月24日 - 県民栄誉賞

18 セ・リーグ歴代1位の65試合連続出塁を達成

2001年も好調をキープ。

5月5日から8月13日までの約3か月の間、セ・リーグ歴代1位の65試合連続出塁を達成。

四球も選べて、率も残せる松井選手だからこそ達成できた記録です。

19 史上3人目の全イニング出場で首位打者タイトル獲得

2001年はシーズン通して安定した活躍。

自身初の首位打者のタイトルを獲得しました。

全イニング出場での首位打者は王貞治、イチローに次ぐ史上3人目の快挙。

 

その一方で本塁打は36本塁打に終わり、松井氏自身「あの年首位打者を取ったけど、打撃は最後まで狂ったままだった」と語っています。

 

打率.333、OPS1.081、36本塁打、104打点で自他ともに認められないとは。

いかに松井氏への期待が高かったのかがうかがえます。

20 当時プロ野球史上最高額となる年俸6億1000万円

2001年オフの契約更改では当時プロ野球史上最高額となる年俸6億1000万円(後に、佐々木主浩が更新)で単年契約した。

 

巨人はFA権獲得が目前に迫っていた松井氏に、下交渉では球団から5年総額50億円の大型複数年契約を提示。

しかし、メジャー挑戦を視野に入れる松井氏は長期契約を断りました。

 

契約更改後の会見では、来期にFA権を行使することを明言し、「このまま巨人に残るか、アメリカに行ってみるか二者択一になる」と語り注目を集めました。 

21 通算300号本塁打

2002年7月9日に黒田博樹から通算300号本塁打を放つ。

共にライバルとして認める2人。

そのライバルがメモリアル弾を放ったのです。

ちなみ黒田投手のプロ初被本塁打は松井氏でした。

 

28歳0ヶ月での300号到達は王貞治の27歳3ヶ月に次ぐ史上2番目の年少記録。

1200試合目での達成は史上6番目の速さ。

 

ちなみに高校卒業から10シーズンでの300本塁打以上打った打者は王と松井氏の2人だけです。

3位の清原和博氏が298本です。

清原氏は松井氏と自身の関係をウサギと亀と称しています。


清原和博が松井秀樹について語る

 

 

一年目は清原31本、松井11本と差があった2人でしたが、松井氏は着実に本数を積み重ねて10年目で清原氏を追い越したのです。

22 連続4番出場記録363試合の日本記録を樹立

2002年の8月1日には4番打者としての連続出場を363試合に伸ばし、石井浩郎の記録を抜き当時の単独1位(後に、金本知憲が更新)となりました。

 

私の松井氏のイメージは中々4番を打たせてもらえないというものです。

入団当時は原辰徳氏。

その後はFAや外国人選手獲得で落合博満、石井浩郎、清原和博、広澤克己、マルティネス、江藤智ら次々と強打者が巨人に加入。

 

開幕4番でスタートしてもすぐに3番になっていました。

恩師長嶋監督は中々松井氏を4番に固定しなかったのです。

それは松井氏にただの4番になって欲しかったのではなく、”真の4番”になって欲しかった親心があったのでしょう。

 

他球団のライバル選手とのタイトル争いだけでなく、チーム内での4番争いも松井氏を成長させたのです。

23 史上8人目の50本塁打を記録

2002年は最終的に自己最多、史上8人目の50本塁打を記録。

セ・リーグでは1985年のランディ・バース以来17年ぶり、日本人では1986年の落合博満以来16年ぶり、巨人では同じく1977年の王貞治以来の25年ぶりの快挙。

 

後半戦は64試合で32本塁打と2試合に1本のペースでアーチを量産。

 

最後に東京ドームで五十嵐亮太投手の速球をレフトに弾丸ライナーで本塁打した時はもう日本に敵はいないと確信させられました。

その前にキャッチャーの米野選手がキャッチャーフライを落球して、50本塁打を本拠地東京ドームで達成するあたりも松井氏が持っている選手だなと感じさせられます。


松井秀喜にしか打てない凄すぎるホームラン集

24 プロ野球新記録の5年連続100得点を記録

9月7日の広島戦でプロ野球新記録となる5年連続100得点を記録。

本塁打と出塁率、シーズン通して試合に出続けられる松井氏だからこそ出来た大記録です。

 

松井氏の得点貢献度の高さをうかがわせられる記録です。

25 本塁打王、打点王、最高出塁率、シーズンMVPを獲得

2002年は打率、本塁打、出塁率では自己最高の成績を記録。

本塁打王、打点王、最高出塁率、シーズンMVPを獲得した。

 

福留孝介選手との首位打者争いに敗れ、惜しくも三冠王はなりませんでしたが、ライバルペタジーニに9本差をつけて本塁打王を獲得するなど、一つ抜けた存在となりました。

 

日本シリーズでも巨人球団史上初の4連勝で日本一に輝き、日本での集大成と言えるシーズンとなりました。

【2002年最終成績】

  • 打率.334(500-167)
  • 50本塁打
  • 107打点
  • 出塁率.461
  • OPS.1.153
  • 120四死球
  • 104三振
  • 4併殺打

26 衝撃のメジャーリーグ移籍 日本球界の両雄がMLB挑戦

2002年11月1日にFA権を行使してMLBへの挑戦を表明。

 

会見の席ではまるで悪事を犯したかのような沈痛な面持ちでメジャー挑戦の意向を口にしました。

「最後の最後まで悩んで苦しかった。何を言っても裏切り者と言われるかもしれないが、いつか『松井、行ってよかったな』と言われるよう頑張りたい。決断した以上は命を懸ける」

 

松井秀喜氏のメジャー挑戦ほど日本球界に衝撃が走った移籍はありません。

メジャーリーガーパイオニアと言われる野茂英雄投手は球団とのもめごと。

野手のイチロー選手の時は「日本人野手挑戦とイチローがどんな成績を残すのか」ということに興味感心が持たれ、挑戦を後押しする空気感が漂っていました。

 

しかし、松井秀喜氏の時だけは様子が違いました。

巨人を中心として日本球界全体が松井氏の残留を臨んでいました。

イチロー選手ですら「アメリカにくるとは思わなかった」とコメントしています。

 

松井氏はあのまま日本にいれば生涯巨人ですんなり監督をしていたでしょう。

同時にシーズン55本塁打、王貞治氏が持つ通算868本塁打越えを期待されていたでしょう。

 

昭和の日本人にとって憧れの巨人のスター&監督という座を捨てて、メジャーに挑戦。

終身雇用が当たり前だった時代の日本人の価値観を否定するような決断。

それだけに反発が大きく、日本野球界が否定されたように感じた人もいました。

 

松井氏が現役時代に再三日本球界復帰の噂が上がっても、否定したのはこの時下した自分への責任があるのでしょう。

後に自身の後を受けて4番を務め、チームリーダーとして巨人を支えた阿部慎之助選手との対談では自らのことを「逃げた男」と称していました。

 

松井氏、巨人だけでなく球界全体にとって衝撃的だった「松井メジャー挑戦」は他ならぬ松井氏にとっても辛い決断となったのです。

 

その後ダルビッシュ有、田中将大、前田健太、そして今は大谷翔平選手の移籍が噂されますが、あの当時ほどの衝撃を与えるものではありません。

 

それは松井氏が日本人のメジャー挑戦を「日本のスーパースター=メジャー挑戦」のレベルまで昇華させたからです。

  

それだけ日本球界にとっては衝撃と言える事件だったのです。

 

ちなみに巨人からFA権を行使して移籍したのは1994年の駒田徳広(横浜へ移籍)以来2人目。

海外FAは巨人史上初でした。

 


松井秀喜が生涯巨人なら王貞治の通算本塁打868を超えられたか検証【パワプロ2017】

27 憧れのニューヨーク・ヤンキースと契約

2002年オフ、松井氏はニューヨーク・ヤンキースと総額2100万ドル(当時約25億4100万円)の3年契約に合意。

 

松井氏は1999年にヤンキー・スタジアムで初めてメジャーリーグの試合(ALCS第2戦)を生観戦した経験からヤンキース入りを熱望。

代理人のアーン・テレム氏には「ヤンキースとだけ集中して交渉してほしい。ヤンキースがダメだったら次のことを考えよう」と伝えるほどだったそうです。

28 ヤンキー・スタジアムのデビュー戦で史上初の満塁本塁打

日米から強く関心を集めた松井氏。

開幕戦で初打席・初安打・初打点を記録。

 

4月8日の本拠地ヤンキー・スタジアム開幕戦、メジャー初本塁打となる満塁本塁打をライトスタンドに叩き込みました。 

ヤンキース史上初の快挙にスタンドから拍手喝さい。

常に大舞台で結果を残してきた松井氏らしい衝撃的なデビューとなりました。


松井秀喜 ヤンキースタジアムで初の満塁ホームラン

29 日本人史上4人目のオールスターゲーム出場

7月に行われたMLBオールスターゲームにファン投票のア・リーグ外野手部門で3位に入り初出場。

これは野茂英雄、2001年のイチロー、佐々木主浩に続く4人目のオールスターゲーム出場となりました。

 

試合ではスタメン出場を果たし1安打を放つなど存在感を示しました。

30 日本人メジャーリーガー初のサヨナラ本塁打 ゴロキングの逆襲

メジャー特有の動くボールに苦戦して、ゴロを量産した松井氏。

2003年のGB/FB(全ゴロ数÷全フライ数)は2.30に達し、全打球に占めるゴロの割合は54.7パーセントに達した。

これはイチロー選手と同等の記録。

 

厳しいニューヨークメディアからは「ゴロキング」と揶揄されました。

 

ただ、日本時代からの勝負強さは健在。

4月12日にはメジャー初のサヨナラ安打。

7月17日には日本人メジャーリーガー初のサヨナラ本塁打を放ちました。

 

徐々にゴロキングの汚名を返上していったのです。

31 ヤンキースの新人としては67年ぶり3人目の100打点以上を記録

最終的にはヤンキースの新人としては67年ぶり3人目の100打点以上を記録(1926年のトニー・ラゼリ、1943年のビリー・ジョンソン)。 

 

本塁打16、打率.287と苦戦しましたが、得点圏打率はチーム最高の.335。

打点は主砲のジェイソン・ジアンビに1差となるチーム2位の106打点を叩き出し、勝負強さを発揮しました。

32 新人かつヤンキースの選手としては21世紀初のシーズン163試合出場

2003年、松井氏は新人かつヤンキースの選手としては21世紀になって初めてシーズン163試合に出場しました。

日本時代からケガに強かった松井氏は慣れないアメリカの土地でも常に試合に出場し続けたのです。

33 リーグ優勝決定シリーズで見せたゴジラの咆哮

勝負強さはポストシーズンでもいかんなく発揮されました。

地区シリーズではポストシーズン日本人初の本塁打を放った。

ワールドシリーズでの日本人初本塁打も放ちました。

 

印象深かったのはボストン・レッドソックスとのリーグ優勝決定シリーズ第7戦。

3-5で迎えた8回裏。

1死1塁で松井氏は難敵、P・マルチネスから火の出るようなライト線への2ベースで2・3塁にチャンス拡大。

続くポサダのセンター前ポテンヒットで同点のホームを踏んだ際には大きく跳び上がり、全身で喜びを表現しました。

 

普段感情を表に出さない松井氏があそこまで闘志むき出ししたくなるメジャーリーグ。

メジャー挑戦して本当に良かったとファンながらに思わされた瞬間でした。

 

恩師長嶋茂雄氏もこのシーンを印象深いシーンとして挙げています。

34 日本での開幕シリーズで本塁打 古巣からも一発

2004年、ヤンキースはメジャー開幕戦を日本で開催。 

 

松井氏はヤンキースと巨人の親善試合では古巣東京ドームで凱旋本塁打を放ちました。

タンパベイ・デビルレイズとの日本開幕第2戦目には日本のファンの前で第1号本塁打を披露しました。

35 日本人メジャーリーガー史上最多の31本塁打と最高のOPS.912

2004年はオフの肉体改造の成果とメジャーに慣れたことで本来の長打力が復活。 

4月24日のレッドソックス戦では、観戦に訪れた両親が見守る中で第2号本塁打を放ち、NPB・MLB通算350本塁打を達成。

 

 最終的に日本人メジャーリーガー史上最多で前年のほぼ倍にあたる31本塁打と同最高のOPS.912を記録。

 

打率.298、OPS.912、31本塁打、108打点はメジャーキャリアハイとも言える成績でした。

 

ポストシーズンでも打棒が爆発し、11試合で51打数21安打、打率.412、3本塁打、13打点、OPS1.221を記録。

相変わらずの勝負強さを発揮し、メジャーで最も個人成績が充実したシーズンとなりました。

36 メジャーデビューから425試合連続出場の新記録 3年連続で全試合出場

2005年7月28日には、メジャーデビューから425試合連続出場の新記録を樹立。

この年も全試合出場を達成し、3年連続での全試合出場となった。

37 メジャーでの自己最高となる打率.305、116打点を記録 

4月9日から5月29日にかけて46試合、202打席連続本塁打なしと開幕から絶不調。

しかし、6月以降に調子を上げると安打と打点を量産。

 

9月8日にはNPB/MLB通算400本塁打を達成。

最終的にはメジャーでの自己最高となる打率.305、116打点を記録。  

本塁打も23を放ち、日本時代のスラッガーからメジャーでは勝負強い中距離打者に変貌を遂げたことを証明したシーズンとなりました。

38 4年総額5200万ドル(当時のレートで約61億8800万円)で契約延長

メジャー移籍当初に結んだ3年契約が切れた2005年のオフ。

 

ヤンキースと4年総額5200万ドル(当時のレートで約61億8800万円)で契約延長。

残留を望んでいた松井氏は「最高に幸せです」とコメントし、高評価での契約延長に満足感を示した。

 

またヤンキースのブライアン・キャッシュマンGMは「松井はグラウンドでの才能だけでなく、日本のファンをひきつける力がある」とコメントし、ビジネス面での貢献度も評価したことを示唆しました。

 

日本時代に5年総額50億円を断った結果、2003年からは3年約25億4100万円、2006年からは4年約61億8800万円に。

物凄い年俸推移になっています。

 

野球の数字だけでなく、選手としての評価もうなぎ登りに上がっていきました。

39 左手首骨折 連続試合出場記録が途切れる

悲願の世界一に向けて臨んだ2006年。

松井氏にアクシデントが襲う。

 

5月11日に本拠地ヤンキー・スタジアムで行われたレッドソックス戦の1回表、浅めのフライを滑り込んでキャッチしようとした際にグラブが芝生にひっかかり左手首を故障。

普段は痛がる素振りを見せない松井氏がボール返球後すぐにグラブを外して苦痛の表情を浮かべた。

 

検査の結果、左手首(橈骨)骨折と診断。

巨人時代の1993年8月22日から続いていた連続試合出場記録が「1768」で途切れました。

当時の監督トーリ、キャプテンジーター、主砲バーニー・ウィリアムスらヤンキース主力選手が松井の離脱は痛いとコメントするなど、ヤンキースに衝撃が走ったアクシデントでした。

 

最終的なMLBデビュー以来518試合連続出場は、日本人選手としては歴代1位記録です。

40 怪我からの復活

2006年シーズン終盤の9月12日のデビルレイズ戦に8番・指名打者で124日ぶりに先発出場。

満員の観衆からスタンディングオベーションで迎えられ、いきなり4打数4安打の活躍で完全復活をアピール。

 

観衆からスタンディングオベーションを受けた際は「4か月の思いが吹っ飛んだ」とコメントした松井氏。

自身初となる長期離脱からの完全復活を支えたのは熱いニューヨークのファンだった。

41 著書『不動心』が30万部を超えるベストセラー

2007年2月に著書『不動心』(新潮新書)を刊行し、30万部を超えるベストセラーに。

元々読書家として知られる松井氏。

オフシーズンは野球のことを忘れて読書に没頭するそうです。

 

ちなみに松井氏自身のお気に入りの本は『自分を磨く方法/アレクサンダー・ロックハート』と『五輪書/宮本武蔵』。

松井秀喜さんは現役時代に「引退したら本に関わる仕事がしてみたい」と語っていたほどの読書家です。『自分を磨く方法』は松井さんの母校、星稜高校時代の恩師山下監督から送られた一冊です。ヤンキース時代に松井さんが試合会場に持ち込んで読んでいたのが宮本武蔵の『五輪書』です。勝負に勝つためには何が理にかなうかを説いたこの本から、どのような準備をすべきかを学んでいたそうです。

引用:あの野球選手は何を読んだ?!知られざる『座右の書』

 

何事にも動じない強い心を作り上げた要因の一つに普段の読書体験があるのです。

42 日本人メジャーリーガー2人目のNPB・MLB通算2000本安打を達成

2007年5月6日、本拠地でのマリナーズ戦で日本人メジャーリーガー2人目となるNPB・MLB通算2000本安打を達成。

 

日本から駆けつけた名球会会長の金田正一の目の前での快挙達成であり、名球会入りを果たした。

 

当初は外野手の失策と記録されたが、後に二塁打に訂正されての達成という、史上稀にみる珍事での達成となりました。

 

イチロー選手にも言えるのですが、これだけの偉大な記録がキャリアの中でさほど大きな偉業ではないことに凄みを感じます。

43 2008年に結婚 ミニラも誕生

2008年3月26日に富山県出身の25歳日本人女性とアメリカ合衆国ニューヨーク市内で挙式。

奥さんが元会社員で一般人のため、プライバシーを考慮して、妻の顔写真や氏名は公表されていません。

2008年3月27日に新婦の似顔絵と共に記者会見を行い、結婚を報告されました。 

 

2013年3月に第一子、2017年1月には第二子となる子供が誕生。

お2人とも男の子です。

 

ゴジラの息子ということで、一部では「ミニラ」誕生とも言われました。

44 恩師長嶋茂雄の通算444号を超えるNPB・MLB通算445号

 2009年は主砲アレックス・ロドリゲス選手の故障離脱により、開幕4番スタート。

4月4日の新ヤンキー・スタジアムの杮落としに花を添える本塁打を放つ。

この本塁打は恩師である長嶋茂雄氏の通算444号を超えるNPB・MLB通算445号。

月間4本塁打を記録するなど代名詞の5ではなく、4に縁があった月になりました。

 

※ちなみにこの項が44なのは偶然です。

45 指名打者での年間最多本塁打の球団記録を更新

2009年は完全に指名打者としての登録。

9月19日のマリナーズ戦で26号本塁打を放ち、ドン・ベイラーを抜いて指名打者での年間最多本塁打の球団記録を更新。

ヤンキースは基本的に主力選手の休養のために指名打者を利用するため、指名打者で通年出場するケースは非常に稀なことでした。

 

最終的にメジャー移籍後2番目に多い28本塁打を記録。

打点もチーム3位の90打点を叩き出す勝負強さで3年ぶりの地区優勝に貢献しました。

46 ワールドシリーズMVP ニューヨークのレジェンドへ

ポストシーズンには主として「5番・指名打者」として出場。

メジャー1年目の2003年以来6年ぶりにワールドシリーズへと進出。

 

このワールドシリーズで松井氏の打棒が大爆発。

第2戦では1-1の同点で迎えた6回裏に、ペドロ・マルティネスから決勝本塁打。

第3戦では2試合連続となる本塁打。

 

極めつけは王手をかけて本拠地ヤンキー・スタジアム臨んだ第六戦。

2回にペドロ・マルティネスから先制の2点本塁打を放つと、3回には中前適時打、5回にも右中間を破る適時二塁打で2打点ずつを加えた。

松井氏は1960年のボビー・リチャードソンのシリーズ記録に並ぶ1試合6打点を挙げました。

 

ほぼ勝負を決定づけた一打を放った際はヤンキー・スタジアムのファンから「MVP!」の大歓声が沸き起こった。

最終的にヤンキースは9年ぶりの世界一。

 

松井氏は打率.643 HR3本 8打点 OPS2.027の驚異的な成績でワールドシリーズMVPに選出。

日本人選手初、フルタイムの指名打者としても初となる偉業となりました。

 

松井氏の名場面の悲劇が甲子園での5打席連続敬遠なら、喜劇は間違いなくこのワールドシリーズMVPです。

 

あの瞬間の松井氏は間違いない世界一の打者でした。

メジャー初挑戦の年に戦った因縁の相手ペドロマルティネス投手を6年越しの頂上決戦で打ち砕く。

 

誰よりもチームの勝利を願ってきた松井氏の神様は最高のプレゼントを与えたのです。 

47 チャンピョンリング贈呈式 かつての同僚たちとの再会

2010年はヤンキースと契約を更新できず、ロサンゼルス・エンゼルスは移籍。

4月13日には移籍後初めてヤンキースタジアムでの古巣ヤンキース戦との凱旋試合。

 

試合前にはワールドシリーズ優勝記念リングの贈呈式が行われ、観客からスタンディングオベーションで迎えられました。

また、かつてのチームメイトが一斉に松井に駆け寄って熱い抱擁を交わすなど、 松井氏が誰からも愛されていることが伺える感動的なセレモニーでした。

48 苦しんだエンジェルス、アスレチックス 屈辱の代打

チームの主軸として期待されながら思わぬ結果が出ない日が続いた松井氏。

エンゼルス、アスレチックス時代には好不調の波が激しく、しばしばスタメン落ちが続いた。

左投手時にスタメンを外れる機会が増え、エンジェルス時代には巨人時代の1993年以来17年ぶりに代打の代打を送られる屈辱を味わった。

49 NPB・MLB通算500本塁打を達成

2011年のアスレチックス時代に7月20日のタイガース戦で第7号本塁打を放ち、NPB・MLB通算500本塁打を達成。

内訳は巨人時代10年間で332本、メジャー9年目で168本。 

 

2017/7/14時点で500号以上打っている日本人は松井氏を含めわずか9名。

松井氏は最終的に記録を507本まで伸ばし、歴代7位。 

MLB通算175本は日本人最多。

日本人でMLB通算100本以上打っているのは松井氏とイチロー選手のみ。


2013/05/04 松井秀喜 メジャーリーグ全ホームラン

 

不世出の大打者であることがこの記録から伺える。

50 復活の本塁打 逆境から這い上がったゴジラ最後の輝き

2011年オフはプロ入り後初めて所属球団未定のまま越年することになった松井氏。 

 

自宅近くのトレーニングセンターでバッティング練習をしながら契約オファーを待ちました。

2012年4月30日にようやくタンパベイ・レイズとマイナー契約を結んだことが発表されました。

マイナーでは結果が出ませんでしたが、チーム事情もあり5月29日にメジャー昇格。

 

昇格当日のホワイトソックス戦で1号本塁打。

更に、6月1日のオリオールズ戦で観客席最上段に飛び込む2号本塁打を放ちゴジラ健在をアピールしました。

 

しかし、これ以降本塁打はなし。

打撃状態もさっぱりで凡打を繰り返す日々が続きました。

7月24日には球団から戦力外通告。

 

その後、オファーする球団はなく、最終的に2012年シーズンは、出場34試合で打率.147、2本塁打、7打点、OPS.435という過去最低の成績に終わりました。

51 電撃の引退 寂しすぎる最後

2012年12月27日にニューヨーク市内のホテルで緊急記者会見。

2012年シーズン限りでの現役を引退を発表しました。

 

松井氏は引退の理由を体力的にも精神的にも期待されるような成績を残せる自信がなくなったことを挙げています。

 

結果的に7月23日のマリナーズ戦の代打ショートフライが現役最後の出場・打席となりました。

一時代を築いた大打者のあっけな過ぎる引退。

 

私はこのニュースを知らされた時、全身から力が抜けて放心状態になったのを覚えています。

子どもの頃にいつも見ていたスーパースターの引退は私の心にぽっかり穴を開けました。

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52 恩師と共に国民栄誉賞受賞

引退翌年の2013年。

4月16日に国民栄誉賞の授与が正式に決定しました。

 

松井氏の背番号55にあやかって、5月5日の東京ドームで行われた試合前に松井氏の引退セレモニーと国民栄誉賞授与式が行われました。

恩師長嶋茂雄氏との同時受賞。

 

引退会見で思い出に残っていることとして、「長嶋監督と二人で素振りした時間」を挙げた松井氏。

松井氏がヤンキース移籍後も電話越しに素振りの音を聞かせて状態をチェックしていたという2人。

長嶋茂雄氏がニューヨークに激励に訪れた時も2人で素振りをしたそうです。

 

国民栄誉賞授与式では長嶋茂雄氏の後ろを歩いて「師の影を踏まず」を実践していた松井氏。

どんな時でも謙虚な松井氏の変わらぬ人柄に胸を打たれました。

 

その後の始球式で松井氏は巨人時代のユニフォームを着用し、長嶋を打者、巨人監督の原辰徳を捕手、安倍を審判に迎えて始球式を行いました。

結果的に大暴投となり、ヒヤッとしましたが、笑顔で野球を楽しむ松井氏を見られて嬉しく思いました。

53 多くのプロ野球選手に賞賛されるフォームとスイング

長嶋茂雄氏と二人三脚で作り上げた松井氏のスイングと打撃フォーム。

 

その打撃は多くのプロ野球選手が驚愕しています。

平成ナンバーワンのキャッチャー古田敦也氏は折に触れて松井氏を最高の打者として挙げています。

さらに古田は、日本で一番すごいと思ったバッターは松井秀喜と断言。
「顔とかこんなでかい。キャッチャーをやって顔を見るけど、松井が高校出てきたとき、こんな高校生おらへんわというぐらいの顔のでかさ、耳のでかさ。一番最初の打席でホームランを打たれ、打球の速さ!スウィングもめちゃめちゃ速かった。えらいことになるな…。順調に成長されたんで、途中からは早くアメリカ行けと思った」と本音を吐き、スタジオ内は爆笑の渦となった。

引用:古田敦也氏 松井秀喜氏は「日本で一番すごいと思ったバッター」 - ライブドアニュース

 

具体的には内・真ん中・外でミートポイントが一列に出来ること。

普通の打者は特にアウトコースが届かず、この打ち方が出来ません。

ただ、松井氏の場合は外のボールもヘッドを返して打つことができるのです。

これは普通の打者では出来ないもの。

強力な下半身の筋力と強いリストがなければ出来ない打ち方です。

 

同時代にセリーグで活躍した同じ右投げ左打ちの強打者・金本知憲氏は年下ながら松井秀喜氏をライバルではなく目標と公言。

特に1998年に広島市民球場で松井氏が紀藤投手から放った推定飛距離150mの場外本塁打を鮮明に覚えているそうです。

 

これはこの試合でキャッチャーをしていた西山選手も鮮明に覚えています。


捕手・西山は見た!! その3「ゴジラ松井の打撃は…」OBTV

 

 

また、この本塁打は松井氏にとってはも生涯1,2の打球だったとのこと。

そんな松井氏のスイングは金本氏曰く「マシンでは身につかない」もの。

日々の絶えまぬ素振りこそが怪物スラッガー松井秀喜を作り上げたと語っています。

 

ある投手がインタビューで松井氏のことをホームランバッターにしては珍しく打席で静かであると語っていました。

同時期に活躍した清原和博、中村紀洋、タフィー・ローズ、アレックス・カブレラのように動的で荒々しくない。

打席でとても静か。

投手はその空間に吸い込まれるように松井のリズムになると。

 

常に動じない強い精神力と反動を利用せずとも遠くに飛ばせる強靭な肉体、そして無駄のないスイングこそが静寂のスラッガー松井秀喜を生み出したのです。

54 現役引退後と2018現在

松井氏は現役引退後、日本に戻ることなくニューヨークに生活拠点を置かれています。

 

2013年にはニューヨーク・ヤンキースにより松井氏の引退セレモニーが開催されました。

その後も2014年にもニューヨーク・ヤンキースのスプリングトレーニングでゲストコーチ。

2015年3月11日にヤンキースGM特別アドバイザー就任(契約期間は1年)

2016年もヤンキースGM特別アドバイザーとして活動。

4月5日にはヤンキースとアストロズの試合にて日本人としては史上初となるヤンキースタジアムでの始球式を行いました。

 

基本的には古巣ニューヨークヤンキースとの強く結びついたセカンドキャリアを送っています。

 

日本球界とは一定の距離を置いており、古巣巨人は監督就任を画策しているとの報道もありますが、具体的なオファーがあったかは明らかにされていません。

 

2014年2月1日から13日まで読売ジャイアンツの春季キャンプで臨時コーチ。

2015年2月3日・4日の2日間に渡って古巣の巨人軍宮崎キャンプを視察。

2月5日から7日まで沖縄県宜野湾でDeNAのキャンプを視察。

2017年の6月25日には日本で野球教室を開催するなど、完全に日本球界と関係をたっているわけではありません。

 

2016年の坂本勇人選手覚醒につながるアドバイスを送るなど、指導力と影響力の高さは絶大。

 

巨人ファンにとっては古巣巨人の指導者になって欲しいことでしょう。

 

2018年には史上最年少の43歳7カ月でのプロ野球殿堂入り。

※それまでは野茂英雄氏の45歳4カ月

 

日本球界からの高い関心と働きへの評価は揺るぎないものがあります。

 

今後どういったセカンドキャリアを送られるかはわかりませんが、どんな形であれ応援していきます。

55 代名詞の背番号55と最後につけた35の意味

最後に松井氏の代名詞背番号55について。

松井氏は巨人時代からヤンキース・エンゼルス・アスレティックス在籍時代には一貫して55番をつけました。

 

元々三塁手だった松井氏は背番号5を希望したものの、当時の巨人はレギュラー格の岡崎郁が5番をつけていました。

その結果、王貞治氏が持つ日本人のシーズン最多本塁打55を超えて欲しいという期待を込めて背番号55を付けることになりました。

 

最終的にシーズン最多本塁打55は達成できませんでしたが、松井=55というイメージが強烈に定着しました。

 

金沢カレーとしてチェーン展開するゴーゴーカレー。

同じ石川県出身ということもあり松井氏がHRを打った日にトッピング券配布のサービスを行っていました。

それだけ背番号55は松井氏の一部になっていたのです。

 

松井氏の影響で左の強打者=55番というイメージも定着しました。

2004年のセリーグ首位打者嶋重宣選手、2010年にパリーグ本塁打王に輝いたT-岡田選手や、2015年にシーズン最多安打216を記録した秋山翔吾選手など、後に続く左の好打者は背番号55を背負っています。

 

イチロー選手の51番同様、大きな番号を自分の番号にしたのです。

 

そんな松井氏が現役時代に唯一背番号55以外の番号を背負ったことがあります。

現役の最後の年、タンパベイ・レイズで背番号35をつけました。

 

レイズの若手有望株であるマット・ムーアが背番号55を使用していたため 、他の番号を選ぶ必要がった松井氏は背番号35を選択。

愛着のある5番と恩師長嶋茂雄氏の3番を組み合わせた番号を選んだのです。

 

常に自分をサポートしてくれた師への感謝の想いが現れた背番号選択だったのでした。

まとめ

55でも足りない松井秀喜氏の伝説エピソードの数々。

 

今後どんな人生を歩まれるのかはわかりません。

無責任にもファンはイチローVS松井秀喜氏の監督対決を臨んだりします。

かつて長嶋茂雄VS王貞治のON対決が日本シリーズで実現したように。

 

どんな形であれ、永遠に語り継がれる日本野球界のレジェンドの今後の活躍に期待しています。

それが野球界に関わりがないことでも。

 

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