引用:西岡が背中痛で登録抹消/タイガース/photo/デイリースポーツ online
西岡選手ほどチームの流れを変えられる選手は他にいない。
こんなにも中身が濃い野球人生を送ってきた野球選手はそうそういない。
個人では盗塁王2回、首位打者1回、ベストナイン4回(ショート3回、セカンド1回)、ゴールデングラブ賞3回(ショート2回、セカンド1回)。
チームタイトルは日本一二回、WBC一回。
2010年には史上初となる3位からクライマックスシリーズで勝ち上がる史上最大の下克上を達成。
輝かしいキャリアを積み重ねてきた。
その一方で、北京五輪敗退、ファンとの衝突、WBC落選、メジャーでの挫折、度重なる怪我など数多くの苦労も積み重ねてきた。
野球人の酸いも甘いも味わい尽くしてきた男。
2016年に負った左アキレス腱断裂から復帰を目指す2017年。
間近に迫ったスピードスターについて語っていく。
目次
- 西岡剛選手とは
- 負けん気の強さは人一倍 大阪桐蔭高校時代から意識していたプロの世界
- 責任感と隣り合わせ 常にチームのことを考えるリーダー
- メジャー、阪神時代に立て続けに起こった怪我
- 左アキレス腱断裂から復帰を目指す2017年 復帰は間近
- まとめ
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西岡剛選手とは
大阪桐蔭高校3年時に主将で4番打者として第84回全国高等学校野球選手権大会出場。
結果は東邦高校に敗れ初戦敗退。
高校通算42本塁打。
2002年のドラフト会議で千葉ロッテマリーンズから1巡目指名を受けて入団。
一年目から背番号は「7」を渡され、球団からの高い期待がうかがえた。
プロ一年目の2003年に1軍で起用され、初安打を放った。
2004年からは2004年はコーチの高橋慶彦の指導の下、プロ入り当初の左打ちからスイッチヒッターに転向。
63試合に出場し、プロ初本塁打を含む6本塁打、6盗塁を記録し、才能の片りんを見せた。
2005年はセカンドとショートで併用されながらも、主にレギュラーとして活躍。
41盗塁で自身初の盗塁王を獲得。
これはパシフィック・リーグ最年少記録、1954年のセントラル・リーグでの吉田義男と並ぶ日本プロ野球最年少タイ記録。
ベストナインを遊撃手部門、ゴールデングラブ賞を二塁手部門でそれぞれ受賞しリーグ優勝と日本一に貢献した。
2006年は前年の活躍が評価され、WBC日本代表に選出。
二塁手のレギュラーとして活躍し、日本の世界一に貢献した。
シーズンでは33盗塁を記録し2年連続で盗塁王を獲得した。
2007年は初の打率3割を残し、遊撃手部門でベストナインとゴールデングラブ賞を受賞。
2008年は故障に苦しみ、盗塁は18に減ったが、2年連続の打率3割到達、自身初の2桁本塁打を達成。
2009年はロッテ時代のキャリアワーストとも言える成績しか残せず、チームも低迷。
WBCの日本代表落選、ファンと衝突するなど苦いシーズンとなった。
2010年は里崎智也に代わってキャプテンに就任。
社会貢献運動として、山田邦子が代表理事を務める「リボン運動・がんの薬を普及する会」に共鳴し、ヒット1本につき1万円を寄付する活動を始めた。
7月24日にはファッションモデルの徳澤直子と結婚することを自身のブログで報告し、26歳の誕生日である同月27日に婚姻届を提出。
シーズンはキャリアハイのペースで打ち続けた。
9月には日本プロ野球新記録となる27回目の猛打賞を記録。
日本人のスイッチヒッターおよび内野手としては初となるシーズン200本安打を達成。
史上4人目となるスイッチヒッターでの首位打者かつ史上4人目の全試合フルイニング出場首位打者となり、最多安打のタイトルも獲得。
また、この年記録した692打席は日本プロ野球記録。
チームもシーズン3位からクライマックスシリーズを勝ち上がり、日本シリーズを制し、日本一に輝いた。
後に、このロッテの偉業は史上最大の下克上と言われた。
シーズン後には遊撃手部門でベストナインとゴールデングラブ賞を受賞。
ポスティングシステムによるメジャーリーグ移籍。
ミネソタ・ツインズと3年契約を結んだ。
メジャーデビューとなった2011年。
ツインズでは主に本職の二塁を守ったが、守備中にランナーを交錯して左足腓骨の骨折。
その後も右わき腹痛で精彩を欠き、68試合の出場で打率.226・出塁率.278・19打点・2盗塁の成績に終わった。
2012年は左手小指を痛め、3月19日にAAA級ロチェスターへ降格。
その後も右足首の捻挫などがあり、メジャーでの出場は3試合に終わった。
オフには自ら契約解除を球団に申し出、9月28日に自由契約となった。
2013年は阪神と2年総額4億円プラス出来高で契約し、日本復帰。
背番号はロッテ時代と同じ「7」になった。
「1番・二塁手」としてレギュラーに定着。
チームに明るい雰囲気を作り、前年リーグ5位だった阪神を2位に押し上げる原動力となった。
日本通算1,000本安打を達成するなど攻守に存在感を放ち、二塁手としては初のベストナインを受賞。
脳には異常が認められなかったものの、鼻骨の骨折・胸部の打撲・軽度の左肩鎖関節の脱臼・左右の第1肋骨骨折。
そのまま一軍登録を抹消された。
復帰後は二塁手・三塁手として出場を続けたが、右肘と背中に痛めを抱え満足のいく結果を残せなかった。
シーズン終了後には、右肘遊離軟骨の除去手術を受けた。
また、離婚協議中だった妻徳澤との離婚を発表した。
2015年は三塁手のレギュラーとして開幕を迎えた。
シーズンを通して状態が上がらず、50試合の出場にとどまった。
2016年は「7番・二塁手」としてスタメンに定着。
6月には左翼手、中堅手として試合に出場し、プロ入り初めて外野守備に就いた。
7月の試合中に左アキレス腱を断裂。
オフにはオリックス・バファローズからFAで加入した糸井嘉男に譲り、背番号「7」を譲り、背番号「5」に変更することが決まった。
年俸も日本復帰時の50%以下となる 9,000万円でサインした。
負けん気の強さは人一倍 大阪桐蔭高校時代から意識していたプロの世界
引用:西岡剛(大阪桐蔭)2002年 PL学園…:平成の夏「思い出甲子園」 写真特集:時事ドットコム
幼少期から地元の名門PL学園に憧れていた西岡選手。
しかし、中学時代に受けたPL学園のセレクションでは落選。
その一方で熱心に誘ってくれた大阪桐蔭高校に進学。
打倒PL学園を掲げて、猛練習に励む。
その結果、高校時代の3年間はPL学園に一度も負けることがなかった。
高校時代の恩師西谷浩一監督は西岡選手のことを「野球でメシを食う」ことを意識していた選手として回想している。
西岡は「どんなことをしてでも、自分をプロにしてくれ」と書きました。「他人より早く起きて(練習を)やるか?」と聞いたら、「やります」と答えました。西岡は入ってきた時から、「(将来は)野球でメシを食う」という感じで、違いましたね。彼の原動力はそれだけでしょう(笑)。
西岡はとにかく入学当初から、
「プロになりたい」「野球で食っていくんだ」
という気持ちが強かった。そのためなら何でも言うことをきくし、どんなに厳しくしても苦しい顔をみせることなく、食らいついてきた。ティーバッティングでも、中田だったら50本くらい打ったところで、
「ちょっと靴紐を結び直します」
などと言って、紐なんてまったく解けてないのにしゃがみ込む。でも西岡は、私がボールを上げたら上げるだけ打ち続けました。自分から音を上げることは一度もなかったですね。
引用:大阪桐蔭西谷浩一監督独占インタビュー中田翔、西岡剛、西武のおかわりくんも指導してきたけど「藤浪晋太郎先輩たちとここが違った」(週刊現代) | 現代ビジネス | 講談社(4/6)
また、高校時代の西岡選手の野球ノートは分かりやすく書かれており、今でも在校生に見せることもあるそうだ。
高校時代からかなりやんちゃなだったそうだが、野球にかける情熱とひたむきな姿勢は誰にも負けなかったようだ。
責任感と隣り合わせ 常にチームのことを考えるリーダー
高校とロッテ時代はキャプテン。
阪神でもチームリーダーとして活躍する西岡選手。
常に責任感を持ってプレーできるのが西岡選手の持ち味。
2006年のロッテ時代、まだ22歳だった西岡選手はテレビのインタビューで「責任を大きく感じるようになった」と発言している。
そんな天性のリーダーに当時球界のリーダーとして、抜群のリーダーシップを発揮していた元ヤクルトスワローズの宮本慎也選手も一目を置いていた。
2006WBC、2007北京五輪予選、2008北京オリンピックで共に戦った二人。
代表で共に生活している間、宮本選手は西岡選手に野球に関する姿勢や気の持ち方などを熱心に叩き込んだ。
PLと大阪桐蔭。
大阪を代表する名門高校出身で、共に大阪出身。
歳は違えど、二人共天性のキャプテンシーを持った選手同士。
通じ合うものがあったのだろう。
2006年WBC制覇、2007年北京予選突破、2008北京オリンピックで屈辱のメダル逸。
苦しく厳しい修羅場を20代前半のうちに経験した西岡選手は他の野球選手よりも何倍も濃い経験をしたのだ。
ただ、その経験をしたことで、西岡選手は選手としてだけでなく、人としても大きな選手になった。
ロッテ時代の2009年には、ボビー・バレンタイン監督の解任を巡り、フロント批判をする一部のファンに対して、ヒーローインタビューの中で意見したことで行き違いが生じた。
その結果、西岡選手を中傷する内容の横断幕が掲げられ、応援歌の演奏をボイコットされる事態にまで発展。
賛否両論巻き起こったこの事件だが、個人的には西岡選手の熱い気持ちが伝わってきて好感が持てた。
西岡選手の想いは自身のブログでコメントした「良いチームを造りたいんです!!」という言葉に全て凝縮されている。
一部のファンが掲げた「死刑」という言葉は球場に相応しい言葉ではない。
そんな言葉が掲げられるような球場にしたくない。
ロッテのことを誰よりも考えていたチームリーダーの責任感があの騒動を引き起こすことになったのだ。
チームを背負う、チームのことを考えることを常にやめなかった西岡選手だからこそ嫌われる、批判されることを恐れず行動にできた。
騒動の翌年西岡選手はキャリアハイの成績を残し、チームを日本一に導いた。
口だけではなく、行動とプレイでファンを沸かせたのだ。
それは責任感を常に感じてプレーしてきた西岡選手だからこそ起こせた偉業だったのだ。
メジャー、阪神時代に立て続けに起こった怪我
引用:「悔しい...」 - 今日の一言 : nikkansports.com
2011年のメジャー移籍以降、西岡選手は怪我で満足のいくシーズンを送れずにいる。
【2011年以降の西岡選手の怪我】
- 左足腓骨骨折(2011年)
- 右わき腹痛(2011年)
- 右足首捻挫(2012年)
- 左膝痛(2013年)
- 鼻骨骨折(2014年)
- 左肩鎖関節脱臼(2014年)
- 左右第1肋骨骨折(2014年)
- 右肘痛(2014年)
- 右肘靭帯損傷(2015年)
- 左太もも裏痛(2016年)
- 右肩痛(2016年)
- 左足アキレス腱断裂(2016)
文字通り満身創痍の身体となっている。
試合出場数は2011年以降68→3→122→24→50→55。
かつて6年連続で115試合以上出場した頃とは比べものにならない程度まで落ち込んでいる。
それに伴うように成績も下降しており、日本復帰後4年間で3割は0回、通算盗塁18個とかつての面影はなくなっている。
ただでさえ、10代の頃から人より多くの試合に出場している西岡選手の身体は蓄積疲労が溜まっている。
加えて上半身、下半身、左右満遍なく故障をしてしまっては思うような結果を残せないのも無理はない。
これだけ多くの故障が出てしまう背景には西岡選手の全力プレイも影響している。
試合になると少々の怪我なら無理をしてしまう持ち前の全力疾走のプレイスタイルが時に怪我を大きなものにしてしまう。
責任感が強く誰よりも一生懸命プレイする西岡選手だからこそ起きてしまう悲劇と言える。
左アキレス腱断裂から復帰を目指す2017年 復帰は間近
引用:復帰の西岡が2軍戦で3試合連続安打/タイガース/デイリースポーツ online
2016年に野球人生最大の試練が西岡選手を襲った。
7月20日の対巨人戦で、ヒットを放った際に、1塁に向かう途中に足を痛め転倒。
起き上がることすらできずに担架で運ばれ途中交代。
病院で検査を受けた結果、「左アキレス腱断裂」と診断され全治1年の重症を負った。
選手生命を脅かす故障に西岡選手は精神的に折れそうになった。
手術を受けるつもりすらないほど、落ち込んで西岡選手だったが、周囲の説得やファンのメッセージを受けて手術を決意。
西岡は「7月26日に手術を受けることになりました」と記した。負傷の瞬間を「あの時タイムリー打ってベース手前でアキレス腱がブチって切れたのがわかりました。『俺の野球人生はこれで終わった』と頭の中でグルグルしていました」と明かした。
手術か、自然治療かのどちらかの選択についても、一時は西岡は「終わったのだから」手術は必要ないと考えていたという。引用:西岡26日手術、一時は「野球人生終わった」 球団、ファンからの声で復帰決意/タイガース/デイリースポーツ online
懸命なリハビリを経た西岡選手。
2017年の2月に安芸で行われた阪神の2軍キャンプでは坂道ダッシュを出来るまでに回復。
また、2016年に85kgあった体重を78kgまで減らした。
その結果身体のキレが戻り、ロッテ時代のように動けるようにまでなった。
本人曰く何を血迷ったかここ最近は筋肉作りに走ってしまっていたそうだ。
しかし、怪我をしたことをきっかけに自分を見つめ直し、本来の自分の持ち味であるキレとスピードに原点回帰。
実際、その顔立ちは非常にシャープになっており、身体はかなり引き締まっている。
結果的に身体のキレを取り戻させてくれた左アキレス腱断裂を西岡選手は「最高のケガ」になったとコメントしている。
2017年5月30日には2軍戦でおよそ10ヶ月ぶりの実戦復帰。
その後はショート、ファースト、センターで試合に出るなど様々な守備にもついた。
フル出場で三盗を記録するなど、走・攻・守で躍動する姿を見せた。
印象的だったのは6月24日に左腕の広島中村投手から決めた右打席での一、二塁間方向へ転がす絶妙なプッシュバント。
このプレイは2005年の日本シリーズ第1戦や2006年のWBCの決勝戦などの大舞台でも成功させてきたい西岡選手の十八番。
相手の隙を突いて足で揺さぶる西岡選手の真骨頂とも言えるプレイが見られ、完全復活が間近であることを印象づけた。
そんな西岡選手の働きを見て、掛布二軍監督は「西岡なんかが(1軍の)いい起爆材にならないと」コメントするなど一軍復帰は秒読み段階まで突入したことを示唆した。
実は西岡選手が左アキレス腱を断裂した際、テレビを見ていた掛布氏は慌てて西岡選手に電話したそうだ。
「あの時に涙流してたので、こいつ辞めるなって思って電話した。それだけはするな。」
掛布氏自身は怪我を理由に33歳の若さで引退。
そのことに対する後悔があったため、西岡選手には自分と同じ怪我をして欲しくなかったそうだ。
そんな掛布二軍監督は誰よりも西岡選手に気がけている。
「”すごい西岡”になる可能性は大きい」、「復活しなきゃダメだ」など折に触れて、西岡選手に言葉を送っている。
また、無理しがちな西岡選手がオーバワークをして、すぐに怪我しないように万全の状態で1軍復帰させようともしている。
具体的な1軍復帰の時期は未定だが、7月の2軍戦で連続試合出場してから決めるそうだ。
昇格については「2軍で3、4試合続けて出てみて、疲れがどうか。自分の体が疲れたときにどうか」と説明した。
そうなると、早くてもオールスター明けの7/17に甲子園で行われる広島戦が復帰戦になりそうだ。
現在阪神は打線が低迷。
ファースト、ショートの若手選手が伸び悩み。
ライト福留、センター糸井も精彩を欠くなど、様々なポジションの選手が打撃不振に陥っている。
それだけにショート、ファースト、センターを守れるスイッチヒッターの西岡選手の一刻も早い復帰が望まられる。
焦りは禁物だが、頼もしい男の復帰を誰もが待ちわびているのだ。
まとめ
先憂後楽。
意味:先に苦労・苦難を体験した者は、後に安楽になれるということ。
これは西岡選手のご両親が西岡選手の若い時から言い続けてきた西岡選手の座右の銘。
若い頃から多くの挫折と厳しい練習に耐えてきた西岡選手。
キャリアの中で故障していない時期が大半だった西岡選手の野球人生は決して順風満帆なものではなかった。
それでも西岡選手は苦労や苦難があるたびに一回りも二回りも大きくなって帰ってきた。
左アキレス腱断裂という野球選手生命に関わる大きな怪我をしても不屈の闘志で全盛期と変わらない状態まで戻してきた西岡選手。
現在、停滞して暗いムードのチーム。
そのムードをムードメーカーであり、チームリーダーである西岡選手が明るいものにしてくれることを首脳陣、選手、ファンが期待している。
スピードスターの聖地甲子園への帰還はもうすぐだ。
それでは、さようなら!