死ぬまで生きる問題

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超二流で終わらない 西武が地獄から這い上がってきた木村昇吾選手と支配下契約

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挑戦者を笑う人は挑戦したことがあるのか。

西武は8日、育成選手の木村昇吾内野手(37)と支配下選手契約を結んだと発表。

2015年に「他球団の話を聞いてみたい」と広島カープからFA宣言。

 

しかし、当初獲得に名乗りでる球団は中々現れず、「おとなしく広島に残留していればいいものを」と陰口を叩くものもいた。

 

その後約2年間で、春季キャンプにテスト生として参加、西武と契約、右膝前十字靱帯断裂、戦力外、育成契約と様々な過程を経た苦労人。

 

そんな木村選手が再び一軍で活躍するチャンスを得た。

ここまで色々あったが、木村選手が残した生き様は後のプロ野球選手たちに新たな生き方の手本になるだろう。

 

今日はそんな不屈の挑戦者・西武木村昇吾選手について語っていく。

目次

木村昇吾選手とは

2002年度ドラフト会議で横浜ベイスターズから11巡目指名を受けて入団。

 

横浜時代は1軍出場こそあったものの、レギュラー定着どころか、1軍定着には至らなかった。

 

2007年のシーズン終了後に、小山田保裕との交換トレードで、岸本秀樹と共に広島東洋カープへ移籍

 

広島移籍後は三塁・遊撃・二塁の守備固めや代走での起用を中心にスーパーサブとして出場機会を増やす。

 

2010年には、打席数は164と少なかったものの、打率は.324と高く、自己最多の10二塁打・5三塁打もマーク。

2011年には、梵英心が負傷で戦線を離脱した6月から、梵に代わって遊撃手のレギュラーに定着。

プロ入り後自己最多の106試合に出場し、自己最多の76安打を記録。

犠打数も自己最多の37に達した。

2013年は一軍公式戦62試合の出場で打率.325、1本塁打、12打点、3盗塁を記録。

 

以降2015年まで、フルシーズンレギュラーとして出場したことはないが、十分その力があることを示した。

内野ならどこでも、時に外野も守れ、小技に秀でるユーティリティプレイヤーである。

広島からFA宣言 木村選手が失ったもの

2015年11月10日に、「(NPB)他球団の話を聞いてみたい」という理由で海外フリーエージェント(FA)権の行使を表明。

広島球団ではFA宣言後の残留を認めていないため、事実上の退団に至った。

 

サブとしてではなく、レギュラーとして活躍してみたいと強い思いが木村選手にFA宣言させたのだ。

 

当初大方の見立ては広島残留が1番。

スーパーサブ木村をどこよりも必要としているのが広島。

 

と言われていた。

しかし、木村選手はレギュラーとして評価してくれる球団への移籍を希望。

だが、行使から1か月以上たっても獲得に名乗りを上げる球団は現れなかった。

西武へ移籍 重傷からの1軍復帰

そんなオファーのない木村選手に救いの手を差し伸べたのが埼玉西武ライオンズだった。

木村選手を2016年の春季キャンプにテスト生として招待。

FA権の行使を宣言中の選手が、所属元以外の球団の入団テストを受けることは、NPB史上初めての事例だった。

 

キャンプ中の2月5日に西武球団と1年契約を締結。

推定年俸は2,000万円。

FA選手が前年の年俸(推定4,000万円)からダウンとなる異例づくしの移籍となった。

 

木村選手の移籍当初遊撃手のレギュラー不在だった西武。

木村選手の目標であったレギュラー定着へ千載一遇のチャンスが巡ってきたのだ。

 

開幕こそ2軍スタートとなったものの、4月後半に一軍登録&初出場。

その後38試合に出場したものの、6月22日の練習中に右膝を負傷。

後の診察で右膝前十字靱帯断裂が判明。

 

悲劇は続き、シーズン終了後に戦力外通告を受けることになった。

また12球団合同トライアウト開催時にはランニングできる状態まで怪我が回復せず、引退の危機がささやかれた。

 

そんな木村選手にまたしても声をかけたのが西武だった。

育成選手として西武と再契約することになった。

 

2017年に37歳の外様選手に対しては異例ともとれる措置だった。

 

そして、2017年6月8日。

遂に再支配下登録され、その日に一軍昇格、即スタメン&安打

会見の席で木村選手が、

 

「もっと野球がしたい。ただそれだけです。」

 

と放った言葉が印象的だった。

挑戦者を笑うな 木村選手は失ってなどいない

FA宣言から昨日に至るまで、木村選手は多くのものを失ったと言われた

セルフ戦力外などと揶揄する声もあった。

 

  • リーグ優勝
  • 日本シリーズ出場
  • 引退試合
  • コーチ就任
  • 年俸4,000万

 

 

その他にも安定した試合出場やスーパーサブとしての立場など、広島から移籍したことで多くのものを失ったように見える。

 

しかし、そう思うのは外野の意見であって、本人はそう思わないだろう。

仮に広島に残留していても、挑戦しなかった自分への後悔の方が大きいのではないか。

 

やらずして後悔するなら、やって後悔した方がいい。

 

そんな思いだったのではないだろうか。

また、現実的に見ても当時の広島には自分と同タイプ(右投げ左打ちの内野手)の安部選手が育っており、あのまま広島にいても出場機会が減少していくことは目に見えていた。

 

そのまま出場機会が減って、コーチになる人生もあっただろうが、あくまで選手として第一線で活躍したい思いの方が勝ったのだ。

 

結果論だけみて、広島に残留していれば良かったという人は挑戦したことがない人ではないか。

 

”小市民達はいつも挑戦者を笑う”

引用:アイシールド21 "蛭魔妖一" 

 

人間挑戦してみると結果はどうあれ気持がいいものである。

 

一時どころか二度も引退の危機にさらされて、右膝前十字靱帯断裂の大怪我もおった。

 

それでも木村選手の頭の中に後悔の二文字はなかったと私は思う。

挑戦者はどんなに苦境に立たされても、過去ではなく前だけを見ているからだ。

 

何より木村選手が不屈の闘志で一軍に這い上がってきたことがそれを証明している。

 

日本のFA事情は有力選手が移籍するために利用される傾向にある。

私はもっと多くの選手が利用してよいと考えている。

所属チームで出場機会がない、レギュラーになれない選手が思い切って他球団の声を聞いてみてもよいのではないだろうか。

 

どうせ野球をするならレギュラーで活躍してみたい!

 

そう思っている選手は多いだろう。

 

もちろん、サブとして、将来のコーチとしての道を考えるのも一つの生き方。

ただ、木村選手のような選手生命を送るのも一つの形。

 

今回の木村選手のような例がでたことは日本球界発展のために良かったのではないかと私は思う。

2017年の西武で木村選手に期待される役割

木村選手の現在の位置付けは、内野の守備固めもしくはレギュラー選手の休養時のスタメン。

いわゆるスーパーサブの役割。

 

現在のライオンズの内野は一塁メヒア、二塁浅村、三塁中村、遊撃源田と不動のレギュラーが固定されている。 

 

ただ、開幕から1軍で守備固めを務めていた永江選手が2軍落ち。

恐らく将来のレギュラー候補に2軍で試合経験を積ませたいという首脳陣の意向があったのだろう。

 

しかし、現在三塁の中村選手は故障がちでバックアップの存在が必要。

また遊撃の源田選手がルーキーのため、通年活躍できる見込みはない。

三遊間にバックアッパーが必要な状況なのだ。

 

そのため、内野の控えとはいえ、木村選手に担う役割は少ない。

結果的にレギュラーを獲れなかったと笑う人もいるかもしれないが、私はそうは思わない。

 

自分の意志で挑戦して、その結果バックアップになったのと、挑戦せずにバックアップとでは意味合いが異なる。

 

若い選手が多い西武にあって、多くの経験をしてきたベテランの力が必要になる。

中村選手が通年健康な状態でシーズンを乗り切れるよう、頼もしいサードのバックアップ木村選手の活躍が必要不可欠になってくる。

 

9年ぶりの優勝を狙うチームにとってなくてはならない存在になるだろう。

まとめ

木村選手の代名詞といえば、守備位置までの全力疾走。

昨日の試合でもその姿を見せてくれた。

 

半年前には考えられなかった様々なことを実現させてみたのだ。

 

今年37歳。

そう長くは残されていない野球人生だが、最後の最後まで全力疾走で駆け抜ける木村選手の姿が見たい。


それでは、さようなら!

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