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【勉強も野球の成績も凄い男】平成最強捕手・古田敦也伝説27

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茶色いフレームの眼鏡

どうも、はろーぐっばい(@jubenonz)です。

 

本日は、【メガネをかけた凄い男】平成最強捕手・古田敦也伝説27をご紹介します!

プロ野球史上最高の捕手は誰か。

戦後・捕手として初の三冠王を獲得した野村克也、最多試合出場捕手の谷繁元信、初のメジャーリーガー捕手の城島健司、強打と強肩で巨人に2度のリーグ3連覇をもたらした阿部慎之介...。

 

数多の名捕手がその名を歴史に刻んできましたが、私が選ぶとするなら古田敦也捕手一択。

野村克也氏の現役時代の映像をほとんど観たことがないので、古田捕手との比較はしづらいですが、「平成最強は誰か」と聞かれれば間違いなく古田敦也捕手になります。

 

抜群の強肩と首位打者を獲得したバッティング、卓越したリード、リーダーシップ、勝負に対するこだわり。

 

挙げればきりがないほどの魅力に優れた捕手でした。

子供の頃にテレビ中継を観ていて、初めて捕手のことをカッコイイと思わせてくれる存在でもありました。

 

野球のプレーだけでなく、技術論や戦術などの考え方を最も教えてくれた方でもあります。

 

そんな数々の革命をプロ野球にもたらした平成最強捕手・古田敦也氏の伝説を代名詞の背番号27にちなんでご紹介します。

目次

1 野球界きっての頭脳派 関西大学と立命館大学に一般受験合格

プロ野球選手になるような人は、幼少期から人並み外れた怪物伝説を持ち合わせているものです。

ただ、古田氏に関してはそういった話がほとんどありません。

 

高校は甲子園出場とは縁遠い、兵庫県立川西明峰高等学校。

甲子園出場はなく、目立った成績を残していなかったため、無名の存在でした。

 

当然プロから誘いがあるわけでもなく、古田氏は大学進学を選択。

関西大学商学部、立命館大学経営学部経営学科の一般入試を受験し、どちらも合格。

この頃は文武両道の”文”の部分が秀でていました。

2 大学屈指の捕手がまさかのドラフト指名漏れ

古田敦也氏の野球選手としての素質が花開いたのは立命館大学時代。

3年時にはチームを関西学生リーグ戦春季・秋季連続優勝に導き、4年時にはキャプテンを務めました。

関西学生リーグのベストナインに4度選ばれるなど、大学野球界屈指の捕手に成長。

大学野球日本代表に選出されるほどの逸材へと成長を遂げました。

 

そんな古田氏に対して、プロ野球球団も熱視線を送ります。

一部の球団はドラフト会議での指名確約を伝えともされ、古田氏はプロ入りを確信。

母校で記者会見の席まで設けて、プロからの指名を待ちました。

 

しかし結果はドラフト指名漏れ。

今でも様々な憶測が流れていますが、古田氏のメガネと乱視が敬遠されて指名漏れしたとされています。

当時球界では「メガネの捕手は大成しない」という定説があり、そのことが指名を躊躇させたのです。

 

古田氏は自分が指名されなかったことより、指名を信じてお祝いの用意していた両親を悲しませたことに心を痛めたと後に語っています。

3 ソウルオリンピックで銀メダル獲得

立命館大学卒業後は社会人の名門・トヨタ自動車に入社。

1年目から正捕手を任され、都市対抗野球でも活躍。

 

1988年に行われたソウルオリンピックの野球日本代表に選出。

野茂英雄、潮崎哲也らとバッテリーを組み、チームを牽引。

ドラフトの目玉捕手として注目されるようになりました。

 

ちなみに、この時日本代表の監督を務めた鈴木義信氏とのやり取りが、後のスーパー捕手古田敦也を生む一つのきっかけにもなったそうです。

88年ソウル五輪の日本代表に選ばれ、代表合宿のときのことだ。当時の鈴木義信監督(現全日本野球協会副会長)へ外野転向を申し出た。「プロに行きたいけど、メガネをかけている捕手は駄目なので」。そこで鈴木監督にこう諭された。「おまえがメガネの捕手第1号になればいいじゃないか」。その言葉に背中を押され、見事にハンデを克服した。全ては「大学で指名漏れしたあの悔しさ。プロで見返してやりたい」という反骨心からだった。

引用:古田氏 メガネ捕手初殿堂 プロ指名漏れ、ノムさんとの出会い…― スポニチ Sponichi Annex 野球

 

また、社会人を経験したことは野球選手としてだけではなく、人間的にも成長するきっかけになったと語っています。

会社員として働いた2年間で学べたことは多いです。2kmもの長い組み立てラインを流れて、やっと車1台が完成 するのですが、その工程には数え切れないくらい多くの人々が携わっています。しかも車が完成したその先には販売店があって、営業して売れて初めて利益が生 まれる。そう考えると、ネジ1本の大切さが身に染みてわかるんです。また、毎月決まった給料で生活をしますから、普通の社会人の金銭感覚も身に付いたと思 います。将来プロに行けたとしても、もしかしたら5年くらいでクビになるかもしれない。そのとき社会に放り出されても、これらの体験や経験がきっと役立つ だろうと。もちろんプロ野球選手として、さまざまな物事を考えるうえでも、貴重な判断材料となっています。

引用:第32回 東京ヤクルトスワローズ 古田敦也 3 | 起業事例 | 起業・開業・独立・会社設立ならドリームゲート

4 紆余曲折あった悲願のプロ入り

2度目のドラフト会議を迎えた1989年。

当時ヤクルトのスカウト部長・片岡宏雄さんが古田氏を絶賛。

 

その年のオフにヤクルトの監督に就任した野村克也氏を説得して、古田敦也氏の獲得に踏み切ったとされています。※諸説あり

 

結局古田敦也氏はヤクルトから2位指名を受け、入団。

晴れてプロ野球選手になれたのです。

5 ルーキーイヤーにゴールデングラブ賞

古田氏のプレイを実際に見た野村克也監督は古田の守備を認め、捕手としての英才教育を決意。

その結果、当時のヤクルトの正捕手だった秦真司を押しのける形で古田氏が徐々に正捕手に定着。

 

ルーキーながら106試合に出場。

リーグ1位の盗塁阻止率を記録し、ゴールデングラブ賞も獲得しました。

 

大卒社会人出身の24歳とはいえ、ルーキーがいきなりゴールデングラブ賞を獲得するとは今では考えられません。

打撃でも及第点以上の打率.250、出塁率.353を記録するなど、攻守に存在感を発揮した1年目となりました。 

6 セ・リーグ初の捕手で首位打者

飛躍の年になったのはプロ二年目。

開幕から正捕手の座を掴むと、 守備はもちろんのこと、打撃の才能が開花。

 

3度の三冠王を誇る大打者・落合博満との激しいタイトル争いの末に、打率.340で首位打者を獲得。

捕手で首位打者を獲得したのは野村以来史上2人目、セントラル・リーグでは史上初。

 

打撃3部門に広げても、野村、田淵幸一に次ぐ史上3人目の快挙となりました。

7 オールスター史上初のサイクルヒットを記録

プロ3年目の1992年に出場したオールスターではオールスター史上初のサイクルヒットを記録し、MVPを受賞 。

前年のMVPから続けて二年連続のオールスターMVPを獲得となり、大舞台での勝負強さを発揮しました。

8 初のリーグ優勝 打てる捕手として更に進化

オールスターからの好調を維持し続けた1992年。

自身初の30本塁打を記録するなど、長打力にも磨きがかかり、チームを牽引。 

 

チームを1978年以来14年ぶりとなるリーグ優勝に導きました。

9 初のシーズンMVPを獲得 日本シリーズで見せた伝説のギャンブルスタート

前年日本シリーズで西武に破れた屈辱を晴らすべく、打倒西武を掲げた1993年。 

2年連続となる全試合出場を果たし、自身初のシーズンMVPを獲得。

 

この年はまだタイトルに制定されていなかったものの、リーグ最多の161安打を放ち、3年連続3割を記録しました。

 

打倒西武を意識した日本シリーズ。

3勝3敗で迎えた第七戦。

ヤクルトが3-2と1点リードの8回表。

 

1アウト三塁でランナーは古田氏。

ここで打者広沢の打球が高くバウンドし、ショートへ転がった。

それを見た古田氏は迷わず本塁突入。

貴重な追加点を加えたヤクルトがそのまま逃げ切り、見事日本一に輝きました。

 

実はこの年のキャンプで野村克也監督は打球がボールに当たった瞬間にスタートを切る

「ギャンブルスタート」の作戦を考案。

チーム全体でここぞの場面で使う練習をしていたそうです。

しかし、前述したケースで野村監督はギャンブルスタートのサインを出しませんでした。

それを見た古田敦也氏は「ここでやらんと、今までやってきた意味がないやろ」と独断で作戦実行を決意。

 

生涯唯一監督の指示を無視してプレイをしたそうですが、これを野村監督は支持。

それは、選手の自立を目標に掲げる野村監督にとって、この上ない喜ばしいプレイだったからです。

 

このプレーはヤクルト時代の同僚・宮本慎也も著書で絶賛。

日本一を左右する大一番でそれができるのが、古田さんらしいところでもある

引用:意識力

 

球界を代表する名将と名ショートが舌を巻くほど、古田敦也というプレイヤーは野球選手として優れていたのです。

10 盗塁阻止率.644の日本記録樹立

1993年に古田氏は盗塁阻止率.644を記録。

これは2017年現在も破られていない不滅の日本記録になっています。

メジャーリーグでいう、アンタッチャブルレコード。 

 

プロ野球史上盗塁阻止率6割超えが生まれたのは3回。

【プロ野球の盗塁阻止率記録】

  • 福島知春(1978):.633(30-19)
  • 古田敦也(1993):.644(45-29)
  • 古田敦也(2000):.630(73-46) 

 

複数回達成は古田氏のみ。

 

古田氏は通算で10度の盗塁阻止率リーグ1位に輝いています。

キャリア通算でも盗塁阻止率.462(926-428)を記録。

 

盗塁阻止率4割を超えたら一流と言われるプロの世界。

近年では盗塁阻止率リーグ1位が4割未満のケースもあります。

その大台4割を通算で大きく上回るとは驚きです。

 

【盗塁阻止率通算ランキング】

  1. 古田敦也 .462
  2. 大矢明彦 .433
  3. 田淵幸一 .422
  4. 梨田昌孝 .391
  5. 城島健司 .383

 

田淵幸一氏が30代前半で捕手引退、城島健司氏35歳の若さで引退しているのに対して、古田氏は42歳までプレー。

 

衰えが如実に表れる肩の影響を受けやすい盗塁阻止率。

30代後半になっても高い盗塁阻止率を記録した古田氏はさすがとしか言いようがありません。

 

ちなみに古田氏は引退後、メジャーでもそこそこやれる自信はあったとコメント。

特に肩はメジャーでも通用したとコメントしています。

 

11 イチロー封じで2年ぶりの日本一

1995年に2年ぶりのリーグ優勝を果たしたヤクルトは、イチロー擁するオリックス・ブルーウェーブと対戦。 

 

 

野村監督のメディアを利用した陽動作戦でイチロー封じに成功。

2年ぶりの日本一に輝きました。

「ブロスのような長身の投手は、緊張するとヒザがうまく使えず速球が高めに浮くことが多い。まして日本シリーズの第1球。真ん中を要求したのが、たまたま上ずって高めに入ってきた。それがうまくストライクになってくれただけ」

 イチローは必要以上に野村ID野球の幻影に取り込まれてしまったのである。

引用:若きイチロー 野村ID野球に必要以上に取り込まれて精彩欠く│NEWSポストセブン

 

オフには当時フジテレビのアナウンサーだった中井美穂と結婚。

ちなみに、中井美穂アナウンサーは野球の知識が乏しく、「野球選手とは結婚するつもりはない」と公言していたそうです。

12 セ・リーグのシーズンMVPと日本シリーズMVPの両方を受賞

1997年は全試合に出場し、リーグ3位の打率.322を記録。

チームをけん引し、見事リーグ制覇と日本一。

シーズンとシリーズの活躍が評価され、ダブルMVPを受賞。

 

大黒柱として、ヤクルト黄金期を築き上げました。

13 5度目のリーグ優勝

2001年、4年ぶり5度目のリーグ優勝を達成。

シーズン終盤に守備中のアクシデントで左膝後十字靭帯を損傷する全治3週間の重傷を負いながらも、最終盤に復帰。

 

圧倒的優勝候補の巨人を倒してリーグ優勝に輝きました。

打撃でもリーグ2位の打率.324を記録し、5番打者として活躍。

 

日本シリーズでも近鉄の強力いてまえ打線を巧みなリードで封じ、日本一を奪還。

自身2度目の日本シリーズMVPに輝きました。 

14 日本タイ記録となる1試合4本塁打・4打数連続本塁打を記録

2003年、それまでそこまで注目されていなかった”長打力”で才能を発揮。

対広島戦で日本タイ記録となる1試合4本塁打・4打数連続本塁打を記録しました。 

 

狭いと言われていた広島市民球場だったとはいえ、4打数連続の本塁打はNPB史上20人目&21例目しかない快挙。

バットマンとしてもその名を球史に刻みました。

15 日本球界も守った男 立ち向かった球界再編問題

古田氏の思い出として一番記憶に残っているのが球界再編問題。

シーズン途中に発表された近鉄とオリックスの合併話。

それに端を発したプロ野球1リーグ制構想など、プロ野球が縮小する方向に動き出しました。

 

選手やファンそっちのけで、オーナー主導で行われた球界再編に対して、選手とファンは反発。

オーナーVS選手会&ファンという前代未聞の事態に発展。

ペナントレースの勝敗以上にその動向が注目される社会問題として、連日メディアを騒がせました。

 

その矢面に立ったのが、当時選手会を務めていた古田敦也氏。

ペナントレースと並行しながら、球界のために奔走。

日に日にやつれていく古田氏の表情を見るのが辛かったのを今でも覚えています。

 

有名な「たかが選手が」発言問題や楽天&ライブドアの参入の可否、近鉄球団消滅阻止など、プロ野球の存在自体が危ぶまれる危機的状況。

そんな中で、古田氏は持ち前の頭脳とリーダーシップを活かして活動。

 

残念ながらオーナー側との交渉はまとまらず、最終的にプロ野球史上初のストを敢行する事態になりました。

スト敢行を発表した時の会見で古田氏が見せた沈痛な面持ちと涙を忘れられない野球ファンは多いでしょう。

 

最終的に近鉄球団の消滅は阻止できませんでしたが、新規参入球団の2005年からの加盟を認めさせることに成功しました。

1リーグ制構想も白紙になり、2005年からは交流戦が開始されました。

 

今でこそ各球団はファンサービスを積極的に行うようになりましたが、それまでは「来るならどうぞ」といった感じでした。

 

話がややそれてしまいましたが、今日のプロ野球があるのは間違いなく古田選手会長の奮闘あってこそです。

もし、あの時古田氏がいなかったらと考えるとゾッとしてしまいます。

16 史上3人目の39歳での打率3割達成

球界再編問題の疲れから、後半戦は思うような活躍ができなかった古田選手。

しかし、それでも打率3割をクリア。

39歳になるシーズンでの打率3割達成は史上3人目の快挙。

 

その技術が全く衰えてはいなかったことを数字で証明しました。 

17 大学・社会人選手史上初の通算2000本安打を達成

2005年、古田氏は通算2000本安打を達成。 

これは大学・社会人選手史上初の記録となりました。

 

捕手としては野村克也以来史上2人目。

※2017年現在でも谷繁元信、阿部慎之助を合わせて4人しか達成していない大記録です。

 

この試合で印象深いことがあります。

それは古田氏が2000本安打達成の記念ボールはファンのいる客席に投げてプレゼントしたことです。

 

とことんまでファンのことを思ってプレイする姿に魅せられました。

球界再編問題の際に、自分のことを支持してくれたファンへのささやかな恩返しだったのでしょう。

18 通算1000打点を達成

2005年は通算1000打点を達成しました。

捕手としては史上二人目、2017年9/24時点で史上43番目の記録です。

 

捕手という負担の大きいポジションを任されながらも、打撃でも結果を残す。

不世出の捕手古田敦也氏の偉大さを感じさせられる記録達成となりました。

19 選手兼任監督就任

恩師である野村克也以来29年ぶりとなる選手兼任監督に就任。 

いずれは監督を務めるだろうとささやかれていましたが、まさかプレイングマネージャーになるとは。

 

球界の頭脳がどんなタクトを振るうのか、ファンの間で非常に注目されたのを今でも覚えています。 

20 代打俺

選手兼任監督時代はベンチスタートが多くなった古田氏。

ベンチから自分自身を代打に送る際に、「代打、俺」が話題になりました。

 

2006年、ヤクルトの古田が野村以来の選手兼監督に就任すると、ファンの間でジェスチャーを交えた「代打、俺」が話題になった。

引用:【スポーツ異聞】「選手兼任監督」の難しさ 「代打、俺」は容易でない(2/3ページ) - 産経ニュース

 

当時同じセリーグの中日に「俺流」で有名な落合博満氏が監督を務めていたこともあり、「俺」という表現が球界でひそかなブームとなっていました。

その流れもあって、「代打、俺」がファンの間で注目されるようになったのです。

球団も「代打、俺」Tシャツを発売するなど、積極的にPRしました。

 

実はこの「代打、俺」采配は決して目立ちたがりのパフォーマンスではなく、選手のことを配慮してのものでした。

「ベンチで待機してる選手って、常にチャンスを待ってる気がするでしょう? 実はそうでもないんです。失敗すると2軍に落とされる。『打ちやすいピッチャーのときだけ出してくれ』って思ってる選手は多いですよ、きっと。ほかにもベテランの“代打の切り札”なんかは、プライドも保ってあげないといけないから、大事な場面以外は起用しづらかったりする。

それで、ダルビッシュやマー君(田中将大)が来たらね、誰が出ても簡単には打てないわけですよ。そんなときは、オレが行くか…っていうこともありましたよ、正直。上に立つポジションになるとわかるけど、配慮が何より必要で、いろいろ大変ですよ」

引用:うまくいかないときの心理術

 

監督古田のマネージメント能力の高さが垣間見える采配だったのです。

21 強力打線を形成 革新的に2番強打者打線

古田=緻密な野球を期待するファンは多かったのですが、その予想に反して古田野球は攻撃的。

バントをしない2番打者として、アダム・リグスを2番に起用。

当時バントの名手で、日本野球の理想の2番打者・宮本慎也を2番で起用しないことに驚きの声も上がりました。

 

古田ヤクルトは1番青木宣親、2番アダム・リグス、3番岩村明憲、4番アレックス・ラミレス、5番グレッグ・ラロッカという強力ラインナップで、リーグ最多の161本塁打、総得点669を記録しました。 

 

この打順は長年捕手として様々なチームと戦ってきた経験から導き出された「相手バッテリーが嫌がる、得点効率が高い打順」だったのです。 

 

2017年のプロ野球では楽天の2番ペゲーロなど、攻撃的な2番打者を採用するチームが増えました。

古田監督はそのトレンドを10年以上も早く先取りしてチームの得点力アップにつなげたのです。

22 引退試合

2007年、8月までに出場わずか3試合にとどまっていた古田敦也氏は引退を決断。

神宮球場は最後の勇姿を見ようと超満員。 

 

守備では8回に石井一、9回に高津との黄金バッテリーを組んで球場を沸かせ、打撃では最終打席に広島の元エース・佐々岡真司と対決。

前日に引退試合を行っていた佐々岡真司を登板させる広島サイドの粋な計らいもあって、球場のファンのボルテージは最高潮になりました。

 

試合終了後にフェンスに登って、ファンに手を振る古田氏の姿は数ある引退試合の中でもトップクラスの思い出深いシーンでした。

23 野球殿堂入り

2015年にはヤクルト黄金時代を築いた功績が評価され、野球殿堂入りすることが発表されました。

 

【古田敦也コメント】 

「プロに入って野村克也さんと出会えたのはラッキーだった。プロとして選手として、また捕手としてイロハのイから教えていただいた。本当に厳しい指導だったが、それがなければ成長していなかったと思っています。感謝しています」と語った。

引用:古田氏 野球殿堂入りの原動力は“悔しさや恥ずかしさ”

 

【野村克也コメント】

古田は決して突出した成績を残したわけではないが、捕手として評価されたのだろう。私がヤクルトで9年間監督を務めた間に4度優勝したが、持論である「優勝チームに名捕手あり」を体現できた。古田の成長と合わせて、ヤクルトは強くなっていった。殿堂入りを誇りに思う。当時の選手では初めての殿堂入りは当然だろう。

引用:ノムさん、まな弟子の古田氏殿堂入りを祝福「誇りに思う」 (2/3ページ) - 野球 - SANSPO.COM(サンスポ)

 

【野茂英雄コメント】

「古田さんはプロに入って首位打者を取りましたが、アマチュア時代にはセーフティーバントしかしていなかった印象がある。いまだに、あのバッティングで2000本打ったことは驚いています」と旧知の間柄ならではの手厳しいスピーチを披露。場内を爆笑の渦へ巻き込み、さすがの古田氏もこれには苦笑いだった。

引用:古田氏 野球殿堂入りの原動力は“悔しさや恥ずかしさ”

24 球界にもたらした捕手のミット革命

球界に多くの革命をもたらした古田氏ですが、その中でも有名なのがキャッチャーミット。

従来よりも大きめのミットを古田氏が使うようになったことで、多くの捕手が参考にして取り入れるようになりました。

 現代野球のミットの原型を作ったと言っても過言ではありません。

 

また、投手の要望に合わせてミットの色も使い分けていたそうです。

当時のエース・岡林洋一投手が「青色でなければ集中できない」と言われれば青のミットを使い、当時のクローザー・高津臣吾投手が「赤でなければ燃えない」と言われれば赤のミット。

試合中でもミットの変更をいとわなかったのです。

 

こうした投手への気配りとコミュニケーションがあったからこそ、古田捕手は偉大な捕手と評価されるようになったのでしょう。

25 数々の名著を出版

球界の頭脳と称された古田氏は現役中も引退後も多くの著書を出版。

捕手の技術論からマネジメント、自己管理術など、様々なジャンルの名著を世に送り出しています。

 

中でも私のお気に入りは『「優柔決断」のすすめ』。

 

迷ったらとにかくやってみて、自分に合うかどうかを判断するそうです。

以前テレビ番組に出演された際も『新しいことを取り入れないこと、変化を嫌うことはもったいない』とおっしゃっていました。

 

野球人以外の学生やビジネスマンにも通じる選択のコツを教えてくれる本です。

テレビなどで普段見せる語り口同様、非常にわかりやすく説明してあります。

 

『「優柔決断」のすすめ』の詳細なレビューは下記も参考にしてみてください。

26 マラソンランナーとして健脚ぶりを発揮

現役引退後は数多くのマラソン大会に参加。

現役時代以上にに”足”でファンを魅了しています。

 

【主な古田氏のマラソンイベント完走歴】

  • 東京マラソン
  • ホノルルトライアスロン
  • アイアンマン70.3 セントレア常滑ジャパン
  • 西オーストラリアでアイアンマンレース 

27 現役引退後の現在

2007年の現役引退後は現場からは離れている古田氏。

野球解説だけでなく、タレントとして数多くのメディアに出演。

芸能人顔負けのトーク力や仕切り力で、テレビ番組の司会を任されることもあります。

 

私はよく「Get Sports」、「フルタの方程式」、「古田敦也のプロ野球ベストゲーム」などの番組を観て、野球について勉強しています。

 

2015年からは「熱闘甲子園」のキャスターを務めるなど、アマチュア野球の解説も行っています。

 

WBCなどの国際試合では、現役時代の冷静沈着なイメージとは対照的に、闘志むき出しの絶叫解説がお馴染み。

感情をむき出しになって一喜一憂する姿を見て、現役時代とのギャップを感じるファンの方もいるでしょう。

 

ただ、それだけ本気で野球と向き合っていることへの表れでもあります。

優れた頭脳だけでなく、野球への情熱があったからこそ名捕手古田は誕生したんだなと気づかされました。

 

ファンや球界関係者からは現場復帰を望む声もあります。

師匠である野村克也氏も現役引退後は10年のブランクを経て現場復帰。

古田氏も現場を離れてから約10年が経過。

 

稀有な経験と野球脳を現場でも活かしてくれる日が来ることを個人的には期待しています。 

まとめ

現在プロ野球が2リーグ12球団の形になっているのは古田氏なくしてはありえなかったことです。

 

古田氏が球界再編問題の時に流した汗と涙のおかげで、今日のプロ野球界があります。

 

選手としての偉大な功績と球界のリーダーとしての奮闘。

 

古田氏もまた、記憶にも記録にも残るスター選手なのです。

その頭脳を活かして今後の野球界に新たな革命を起こしてくれることに期待しています。


それでは、さようなら!

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