死ぬまで生きる問題

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人の不幸を避けるために嫌われる勇気はあるか 批判覚悟で関東大震災を予見した今村明恒に学ぶこと

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 人の不幸を避けられるならその力になりたい。

それは多くの人は思うであろうことです。

 では、自分が嫌われる、嘘つき呼ばわりされる状況でも人の不幸を避けるために行動できますか。

 

 

かつて日本で発生した未曾有の震災、『関東地震関東大震災)』、『東南海地震』『南海地震』。

これらを予見した今村 明恒(いまむら あきつね)という日本地震学者がいた。

 

しかし、彼がはじめて地震の発生を予想し、警戒を呼び掛けてもそれを理解する人はほとんどいなかった。

それどころか「いたずらに人心を惑わしている」として「ホラ吹きの今村」と呼んだのだ。

 

それでも今村 明恒は地震のの危険性を人々に訴えることをやめなかった

 

結果的に今村 明恒の予想が当たってことで、人々は大震災発生後、地震対策を行うようになった。

 

この話を聞いたとき、私のなかで一つの醜い感想が頭に浮かんだ。

 

「もし、俺が今村明恒の立場だったら、心のどこかで地震が発生して欲しくなっただろうな」と。


目次

未曾有の震災を予期した今村明恒とは

今村 明恒(いまむら あきつね1870年6月14日(明治3年5月16日) - 1948年1月1日)は日本の地震学者。

 

当時としては珍しく、地震予知に情熱を燃やした学者。

 

今村は関東地震(1923年)や東南海地震(1944年、マグニチュード7.9)を予知し、当時の政府や人々に対策するべきと警告。

 

しかし、今村の警告には「世を騒がせるだけ」だ批判が起こった。

また今村の師匠にあたる大森房吉教授(1868-1923)も今村の予想を批判。

絶対起きるという確証がないのに、そんなことをいっては人々が無駄に混乱するだけだと訴えた。

 

今村の訴えが聞き入れられないなか、今村の予想は現実のものになってしまった。

 

1923年、関東大震災が発生。

死者10万人を越える大災害となった。

 

このことで人々はようやく今村を信じるようになり、「地震の神様」と讃えるようになった。

 

しかし、当の今村の心の中には大災害の被害を少しでも軽減出来なかった後悔しかなかった。

 

研究を続けた結果、今村は次の大地震東南海地震で予測。

政府に予兆を計測する施設の設営を求めたが聞き入れられなかった。

 

この時は折り悪く、昭和6年には満州事変が勃発。
いつ起こるかわからない地震には人々は関心を示さなかった。

 

当時十分な観測所がなかったため、明恒は1928年に和歌山に南海地動研究所を私費で設立した。

 

また、防災の大切さを人々に知らせるために地震後の津波の危険性と早期避難の重要性、人命救助の方法について書かれた「稲むらの火」を学校の教科書に掲載されるよう尽力。

 

今村の予想通り1944年に東南海地震(M7.9)が発生。

被害は1200人以上の死者行方不明者にのぼった。

 

軍用機の生産にも大きな影響を与えた。

しかし、運悪く当時は第二次世界大戦中だったため、地震の被害の報道は差し止められた。

 

その2年後の1946年12月に南海地震(M8.0)が発生。

被害は死者行方不明者は1,400人以上、家屋全壊12000戸、半壊23000戸未曾有の災害がまたも発生した。

 

地震への対策が十分に取られていなかったため、被害を軽減することが出来なかった。

 

そのことを今村は悔いたとされている。

 

自らが必死になって訴えかけたのに、耳を貸す人はほとんどいなかった。

救えた命も救えなかったことは今村にとって、悔やんでも悔やみきれないことだったのだ。

 

嫌われる覚悟で、子どもたちを作った地獄先生ぬーべーのアカシックレコード

この話をきっかけに思い出したことがある。

それは地獄先生ぬーべーに登場したアカシックレコードに自在にアクセスできる不思議な老人の話だ。

 

アカシックレコードとは全宇宙の過去未来が記されているもののこと。

 

不思議な老人は子どもたちの過去から未来まで次々と言い当てた。

その結果、老人は瞬く間に小学生の人気者となった。

 

しかし、ひょんなことからそのおじさんがかつて預言者としてテレビに出演していたことが発覚。

デビュー時は予言を次々と的中させていたが、次第に予言ミスが多発して、テレビから干されていた。

 

外れた予言の中には、飛行機テロの墜落があった。


老人の予言を信じた人々が搭乗キャンセルし、そのことで、航空会社は老人を起訴を計画しており、その他にも被害を受けた企業が続々と訴訟を起こそうとしていたのだ。

 

そのことを知った生徒たちは憤慨し、老人に詰め寄る。

 

名誉挽回とばかりに、老人は竹薮から金塊が見つかるそこを掘ってみて、本当に自分が預言者か確かめてみろと言う。

 

生徒たちは、橋で釣りをする予定を変えて、老人の指示通り竹藪に向かう。

 

しかし、掘れども掘れども金塊は見つからず、老人はやはり嘘つきだと生徒たちは責め立てた。

 

ぬーべーは「おじさんは本物の予言者のはずなのになんで嘘の予言をしたの」かと聞く。

 

老人がぬーべーを連れて、橋にいくと一匹の犬が橋を渡ろうとすると橋が崩れ落ちた。


その橋は老朽化が進んでいたものの、利用者がいなかっために老朽化していることに気づかれていなかったのだ。

 

もし生徒たちが予定通り釣りに来ていたら、彼らは橋と共に落下して死んでいた。

飛行機テロにしても、老人が予言を公にしたことで搭乗者が減り、テロリストたちが計画を中止。

 

老人は自分が嫌われる、訴えることを覚悟で人々のために行動したのだ。

 

 

人に批判される、嫌われる覚悟を持って正しい行いができるか

上記の二つのエピソードに登場した今村と老人に共通点しているのは、人に批判される、嫌われる覚悟を持って正しい行いをしていることだ。

 

今村にすれば、地震が発生すると言えば反対されることはわかっていたし、老人にしても、人を助けるためとはいえ、自分の予言が外れれば、嘘つき呼ばわりされることはわかっていた。

 

それでも、誰かのためになる行動をとったのだ。

 

もし、私が彼らと同じ状況だった時、果たして同じことができるか。

私にはできないと断言していい。

 

なぜなら私の中には醜い心があるからだ。

 

今村教授の件を出すなら、約20年をかけてたどり着いた地震予知を否定された上に、むしろ反感を呼んで、言論の機会を奪われる。

それどころか、身体的な危害を与えられかけたことさえもあった。

 

結果的に一度震災が発生し、ようやく人々が耳を傾けてくれると思ったら、満州事変、第二次世界大戦らの戦争が優先され聞く耳を持ってもらえない。

自分が私財と生涯をかけてまで、人々の身を案じて行ったことが評価されないのだ。

 

仮にもし地震が発生していなければ、今村教授は「ホラ吹き」の汚名を一生着たままだっただろう。

私ならそんな状況は耐えられない。

もちろん、断じて震災など起こって欲しくない。

しかし、もし私が今村と同じ状況なら心のどこかに自分の正しさを証明したい欲求が出はしないだろうか。

 

例えば、私が仕事で部下をもったとき、その後輩が間違った仕事のやり方をしていると感じたら。

私の子どもが間違った勉強法をしていると感じたら。

私が指導しているスポーツチームの生徒が間違った練習方法をしていると感じたとする。

 

それらの間違った方法をAとしよう。

そして、仮に私がBの方法をアドバイスしたとする。

 

ところが、アドバイスした人々がAのやり方を貫き通すと言ったらどうか。

もちろん、あくまで目的は私がアドバイスした人が望む結果を得ること。

そのため、私のアドバイスによって、結果が出るかどうかはどうでもよいことだ。

 

しかし、私の場合、心のどこかで「自分が正しかった」ことを証明したい自分が現れてしまう。

 

 いわゆる「手段と目的」が逆転しまうのだ。

 

私はこうした感情を持つ人は一定数いるのではないかと考えている。

今まで多くの人からアドバイスをもらってきたが、それらの人の中には自分の正しさを証明したい気持ちが強いように感じさせられる人がいた。

 

仮に私が忠告に従わずにミスを犯した場合、「ほれみたことかと」大見得を切られたことがある。

 

もちろん中には私のことを案じて、忠告をしてくれる人、私が忠告を曲げずに自身のやり方を貫き通したことで結果が出たことを喜んでくれる人もいた。

 

恐らくそれらの人は人と対立したり、嫌われることへの恐れが良い意味でないのだろう。

そして、自分の正しさを証明したいという気持ちがないのだろう。

 

 今回紹介した今村教授にしても、目的はあくまで災害時の被害を少なくするよう、人々に対策を練ってもらうこと。

予言能力がある老人にしたって、人々が危険を避けることが目的。

 

もし、自分の行動が人に批判されたり、嫌われる可能性があったら。

それでも、それがその人のためになると思うなら行動する。

 

それがその時、その人にためにならなくても。

まとめ

人の心はどこか醜い。

自分が評価されたい、自分の正しさを証明したいという一種の承認欲求が人の心を醜くする。

 

その醜さに支配されて、人の不幸やミスを望むようになっては本末転倒。

 

自分の欲求に支配されて、自分を見失わないよう、人を憎まぬようにしていかなればと考える今日この頃です。

 

それでは、さようなら!